ヨガを推奨しております。
それは、ヨガが体を柔らかくするだけでなく、凝り固まった「思考の癖」を解きほぐしてくれるからです。
私たちは日々、悩んでいます。
「この仕事は本当に自分の個性に合っているのだろうか?」
「もっと自分らしく輝ける場所があるのではないか?」
あるいは、
「このパートナーは私の運命の相手なのだろうか?」
「もっと価値観の合う、理想的な人がいるのではないか?」
現代社会において、この「マッチング(適合)」への強迫観念は、まるで呪いのように私たちを縛り付けています。
失敗したくない、時間を無駄にしたくない、効率よく幸せになりたい。
そう願えば願うほど、私たちは「選び損ねる」ことを恐れ、足がすくんで動けなくなってしまいます。
今日は、少し縁側に座ってお茶でも飲むような気持ちで、この「自分に似つかわしいものを探す」という行為について、ヨガ哲学や東洋的な視点から、静かに紐解いてみたいと思います。
もしかすると、探すのをやめた瞬間に、探していたものが見つかるかもしれません。
もくじ.
「自分探し」という名の迷路
まず、私たちが陥っている「前提」について考えてみましょう。
「自分に合う仕事」や「自分に合う人」を探すとき、私たちは無意識のうちにこう考えています。
「確固たる『自分(個性)』というものが先に存在し、世界のどこかにその凹凸にぴったりハマる『パズルのピース(仕事や相手)』が存在する」
これは、非常に西洋的で、近代的な考え方です。
しかし、ヨガや東洋の思想では、この前提そのものを疑います。
なぜなら、「自分(Self)」とは、固定された不変のものではないからです。
変化し続ける「私」と「世界」
ヨガでは、私たちの心身は常に変化し続ける「諸行無常(Prakriti)」の一部であると考えます。
昨日のあなたと、今日のあなたは違います。
経験を積めば価値観は変わり、体調が変われば気分も変わります。
それなのに、「今の自分」という小さな物差しで、「一生モノの仕事」や「運命の相手」を測ろうとすること自体に、そもそも無理があるのです。
自分という形が定まっていないのに、ぴったり合う服(環境)を探そうとして、裸のまま試着室で悩み続けている。
それが、現代人の「自分探し」の正体かもしれません。
適職は「探す」ものではなく「呼ばれる」もの
では、仕事について考えてみましょう。
「個性を活かせる仕事」を探すことは、一見素晴らしいことに思えます。
しかし、自分の個性を正確に把握している人が、どれほどいるでしょうか?
多くの場合、私たちが思う「個性」や「やりたいこと」は、メディアや教育によって刷り込まれた「憧れ」や「エゴ(自我)」の産物に過ぎません。
「クリエイティブな仕事がしたい」「人から感謝される仕事がしたい」。
これらはエゴの欲求であることが多いのです。
「召命(Calling)」という考え方
古来より、仕事は「職業(Occupation)」である前に、「天職・召命(Vocation/Calling)」であると考えられてきました。
自分の意志で「これを選びました」と掴み取るものではなく、何らかの縁や流れによって「これをお願いします」と差し出されるもの。
それが仕事の本質です。
天職とは「自分にはこの仕事しかできない」と後になって気づくものであり、最初から「これが天職だ!」と分かって就くものではありません。
目の前にやってきた仕事、頼まれた役割。
たとえそれが、最初は「自分に合わない」と感じるものであっても、淡々と、丁寧に(ヨガ的に言えばカルマ・ヨガとして)取り組んでみる。
その過程で、身体が慣れ、技術が身につき、結果として「自分らしい仕事」に変容していくのです。
「自分に合うか」と品定めをする傲慢さを手放し、「縁があった場所で咲いてみる」という謙虚さを持つとき、仕事は苦役ではなく、自己研鑽の道(Do)へと変わります。
パートナー選びと「消費者の論理」
次に、人間関係やパートナー選びについてです。
ここでも私たちは、「スペック」や「相性」というカタログスペックを重視しがちです。
まるでネットショッピングで、自分に都合の良い機能を持った家電製品を探すように、パートナーを探していないでしょうか。
「趣味が合う」「話が合う」「年収が」「見た目が」。
これらはすべて、「私にとって快適か、損をしないか」という消費者の論理です。
「縁(En)」とスピリチュアリティ
しかし、人と人との出会いは、そのような表面的な計算を超えた領域で起こります。
東洋思想には「縁(En)」という美しい概念があります。
それは、人間の知性を超えた、宇宙的な采配のようなものです。
スピリチュアルな視点を少し借りれば、私たちが出会う相手は「魂の成長に必要な相手」です。
それは必ずしも「居心地の良い相手」とは限りません。
むしろ、あなたの痛いところを突き、エゴを揺さぶり、見たくない自分を鏡のように映し出す相手こそが、深いレベルでの「運命の相手」であることも多いのです。
「自分に似つかわしい相手」を思考(マインド)で選ぼうとするとき、私たちは「今の未熟な自分」を肯定してくれるだけの相手を選びがちです。
しかし、本当に必要なのは、未知の自分を引き出してくれる、異質な他者との摩擦なのかもしれません。
摩擦があるからこそ、私たちは磨かれるのです。
ヨガ的解決:エゴの計算を手放し、流れに委ねる
「どの職業がふさわしいか」「どんな相手が似つかわしいか」。
そうやって思いを巡らせ、思案すること。
それは言い換えれば、「未来をコントロールしたい」というエゴの現れであり、未知なるものへの「恐れ」でもあります。
ヨガの教えに「イシュワラ・プラニダーナ(自在神への祈念・降伏)」というものがあります。
これは、宗教的な意味合いを超えて、「自分の小さな計算や努力を超えた、大きな流れ(大いなる意思)を信頼し、委ねる」という態度を指します。
直感(インスピレーション)は静寂の中に
計算高い思考(マインド)で選んだものは、状況が変わればすぐに色あせます。
しかし、ふとした瞬間に訪れる「なぜか分からないけれど、こっちだ気がする」という直感や、偶然の重なり(シンクロニシティ)に導かれた選択は、人生を大きく展開させます。
その直感を受け取るためには、頭の中の「損得勘定」や「適合性のチェックリスト」を一度脇に置き、内側を静寂にする必要があります。
瞑想をする、深呼吸をする、自然の中に身を置く。
そうして「思考のノイズ」が静まったとき、本当に進むべき道や、大切にすべきご縁が、向こうからやってくるのです。
終わりに:適合性よりも、適応力を
結論として、「どの職業が、どんな相手が、自分にふさわしいか」と思いを巡らせること。
それは決して悪いことではありませんが、それ自体が目的になってしまうと、私たちは永遠に迷い続けます。
大切なのは、「自分に合う環境」を探し回ることではなく、どんな環境であっても、そこで楽しみを見出し、学びを得て、自分自身を変化させていける「しなやかさ(柔軟性)」を養うことです。
それこそが、ヨガが目指す心身のあり方です。
完璧な地図(計画)を持って旅をするのもいいですが、地図を捨てて、迷うことそのものを楽しんでみる。
偶然入った店での出会いや、予定外のトラブルこそが、旅のハイライトになるように。
人生もまた、計画通りにいかない部分にこそ、本当の豊かさが隠されているのかもしれません。
まずは、焦る気持ちを吐く息と共に手放して。
今、目の前にある「ご縁」を、ただ丁寧に味わってみませんか。
それが、あなたにとっての「ヨガ」の始まりとなるでしょう。
ではまた。


