ヨガを推奨しております。
ヨガクラスが終わった後、生徒さんから「今日は不思議な時間でした」と言われることがあります。
「何かを教わったような気もするし、何も教わっていないような気もする」
そんな感想をいただくとき、私は内心で少し微笑んでしまいます。
それは、ヨガという営みの核心に、その方が触れた証拠かもしれないからです。
一般的に「習い事」や「スクール」といえば、先生が生徒に新しい知識や技術を「教える(Add)」場所だと思われています。
しかし、ヨガの本質はそこにはありません。
今日は、私たちがヨガクラスという場で一体何をしているのか、その少しパラドックスめいた真実について、静かにお話ししてみたいと思います。
もくじ.
知識を足すのではなく、幻想を引く
現代社会の教育システムは、基本的に「足し算」でできています。
学校では知識を詰め込み、社会に出ればスキルや資格を身につけ、もっと賢く、もっと有能になることを求められます。
「今のままのあなたでは不十分だ」という前提が、そこには常に横たわっています。
しかし、ヨガのアプローチは真逆です。
私たちは「引き算」をします。
あなたが背負い込んでしまった「こうあるべき」という思い込み、社会的な役割、過去のトラウマ、そして「自分は不完全だ」という最大の誤解。
それらを一枚ずつ、薄皮を剥ぐように取り除いていく作業です。
クラスで私が「力を抜いてください」「ただ呼吸を感じてください」と伝えるとき、それは新しい技術を教えているのではありません。
あなたが無意識に入れている力を「やめてもらう」ための提案をしているのです。
何かを教える(Teach)のではなく、あなたが本来持っていた感覚を思い出してもらう(Remind)。
だから、極論を言えば、私は「何も教えていない」のです。
ただ、あなたが本来の完全な状態に戻るのを、邪魔しているものを取り除く手伝いをしているだけなのです。
アーサナ(ポーズ)は何のためにあるのか
では、なぜ身体を動かすのでしょうか?
ダウンドッグや戦士のポーズなど、具体的な形(アーサナ)を指導しているではないか、と思われるかもしれません。
確かに、私たちは身体を使います。
しかし、アーサナは目的ではなく、あくまで「手段」であり「方便」です。
現代人の心は、あまりにも忙しく、常に過去や未来へと飛び回っています。
いきなり「さあ、心を見つめて」と言っても、暴れる猿を檻に入れるようなもので、土台無理な話です。
そこで、身体という「今、ここ」にしか存在できないアンカー(錨)を使います。
「右足に体重を乗せて」「背骨を伸ばして」
身体の細部に意識を向けるという作業を通じて、強制的に意識を「今」に繋ぎ止めるのです。
複雑なポーズに挑戦しているとき、明日の会議のことを考える余裕はありませんよね?
アーサナとは、思考のおしゃべりを黙らせ、身体感覚というリアルな現実に着地するための、極めて巧妙な装置なのです。
そして、その身体操作の先にあるのは、「曲芸のようなことができるようになること」ではありません。なんの意味もありません。
自分の身体の中に流れるエネルギー(プラーナ)を感じ、詰まりが取れ、透明になっていく感覚を味わうこと。
ポーズの完成度ではなく、そのプロセスで感じる「静寂」こそが、私たちが手渡したいものであり、あなたが受け取るべき果実です。
現代社会という病からのシェルター
私たちは日々、膨大な情報と競争の中にさらされています。
「もっと速く」「もっと効率的に」「もっと結果を」
この資本主義の急流の中で、私たちは常に交感神経を張り詰め、戦闘モードで生きています。
それは、魂にとって非常に過酷な環境です。
ヨガクラスは、この急流から一時的に避難するための「シェルター(聖域)」としての機能も持っています。
スタジオの扉をくぐり、靴を脱ぎ、マットの上に座る。
それは、社会的な肩書きや役割という鎧を脱ぐ儀式でもあります。
ここでは、誰もあなたを評価しません。
上司も部下も、親も子も関係ない。
ただの「生命」として、そこに存在することが許される場所。
「何もしなくていい」「頑張らなくていい」
クラスの最後にシャヴァーサナ(屍のポーズ)で横たわるとき、多くの人が涙を流すことがあります。
それは悲しいからではなく、張り詰めていた緊張の糸が切れ、深い安堵と共に「ただの自分」に還れたことへの、魂の喜びの涙なのです。
私たちは、ヨガを通して「安全基地」を提供しているとも言えます。
スピリチュアルな視点:あなたはすでに知っている
少しスピリチュアルな視点でお話ししましょう。
ヨガの哲学では、すべての人の中に「アートマン(真我)」と呼ばれる、永遠に輝く光が存在すると考えます。
それは傷つくこともなく、汚れることもなく、最初から「完全」なものです。
つまり、あなたは何かを付け足して立派になる必要など最初からなく、ただ、その内なる光を覆い隠している雲(無知・アヴィディヤー)を払えばいいだけなのです。
私がクラスで伝えていることは、実はあなたが魂のレベルでは「すでに知っていること」ばかりです。
「呼吸は心地よい」「静寂は安らぐ」「愛はあたたかい」
これらは教わるものではなく、思い出すものです。
先生(グル)とは、知識を授ける人ではなく、鏡のような存在です。
あなたの内側にある美しさや賢さを、鏡のように映し出し、「ほら、あなたは本来こんなに素晴らしいんですよ」と気づかせる役割に過ぎません。
結論:何も教えていないし、すべてを伝えている
ですから、タイトルへの答えはこうなります。
「私たちは新しいことは何も教えていない。しかし、あなたが忘れていたすべてのことを伝えている」
もし、あなたが「何か新しい知識を得て、もっとすごい自分になりたい」と思ってヨガに来ると、最初は肩透かしを食らうかもしれません。
でも、続けていくうちに気づくはずです。
求めていた答えは、外側の知識の中にはなく、削ぎ落とされた自分自身の内側に、最初からあったのだと。
その「気づき」が起きたとき、真の意味でのヨガ(結合)が始まります。
私たちは、その奇跡のような瞬間に立ち会えることを、何よりの喜びとして、今日も縁側で静かにお待ちしています。
教えることも教わることもない、ただ共に在る時間を過ごしましょう。
ではまた。


