ヨガというのはある種の修行法であると思います。
現代のようにフィットネスとしてやるのも楽しいですけど、身体を健康的にするためにやるものとは少々異なるかと思います。
ものの本を見ても、今から考えると健康的でないことも見受けられます。(もちろん、健康的なこともありますよ)
サマーディという至福の状態を目指すものです。
なので学習とはことなります。
学習というのは学んで習うものです。
学んで習っても至福にはたどり着けません。
だから、修行という形をとるのでしょう。
「何をどのくらいやるとどうなるのか」ということがわからないのだから学習のしようがない。
そんな計画も立てられない。
行をひたすらに修めていく。
結果として何かになっていくのです。
ヨガだとサマーディという至福の状態と言われます。
だから、全然練習していない人がサマーディに到達することも全然あるわけです。
努力も報われない。
努力が報われるのはそこに相関関係があるから。
でもサマーディには相関関係がない。
ということで、わからないことをやるのが修行です。(むちゃくちゃ笑)
ともかくやる時期も大事です
これからやることがわかっているというのは「〇〇を手に入れる」というわかりやすい〇〇をわかっていると言うことです。
〇〇がわかっているからそこに向けて頑張ったり、努力したり、行動できたりします。
ヨガにおいてはこの〇〇なんてわかりません。
ヨガはそういうものです。
もちろん、一般的にはそういうものではないものも多くあります。
勉強でも仕事でもプロジェクトでも「〇〇を達成する」「〇〇を実行する」「〇〇になる」と表現できることが多いです。
なので、ヨガや道と名のつくものにある「〇〇を得るということそのものを手放していく」なんて思想はわからないことでしょう。
そして、そもそも手放すことを目的としている人が何か始めたりもしませんのでヨガに出会うこともあまり多くないでしょう。
だから、多くの人はヨガをやって〇〇を得るということを思っているはずです。
ヨガをやる醍醐味は、その〇〇を得るということとは別の世界があるということを知ることにもあるのだと思います。
特に瞑想はそれそのものです。
手放すことそのもの。
何かをするということから離れるのが瞑想。
「じゃあどうするの?」という話になりますよね。
ここまできて、「それでもやるしかなくね」ということなるのだと思います。
ヨガをとことんやってみる。
毎日、毎日ヨガのプラクティスをやってみる。
疲れていても、何か特別なことがあってもやってみる。
そうすることで「行為」というものが身体から落ちてくるのだと思います。
ピアニストの方でも物凄い練習量じゃないですか。
他のスポーツ選手でも。
ヨガもそこまでやってみるといいのだと思うのです。
それが、いったんの「とはいえ、やるしかなくね」ということです。
ともかくやるだけでもダメです
やりまくってみたけど。
ということで、当たり前ですけど、ともかくやりまくっているだけではダメな時期もあります。
丁寧にやったり、振り返ったり、修正したり、休んだり。
様々な組み合わせのもと、やったり休んだりで工夫する時期も必要です。
また、ただぼぉ〜とすべてを止めるような決断が必要なこともあるでしょう。
「ただただやる」という時期を経ていくことで気付けることもあります。
立ち止まったり、工夫することで気付けることもあります。
その両方をやることで気付けることもあります。
その両方をやらないで気付けることもあります。
では、どうしたらいいか。
それは自分の立ち位置で決めるしかありません。
人それぞれです。
タイミングも人それぞれです。
ということで、いったんはやり切るですね。
やってやってやり切る。
それからまた考えましょう。
終わりに:終わりのないことの楽しさ
ヨガは終わりのないものです。
瞑想も終わりのないものです。
BORN TO YOGというヨガを教えております。
SUWARUという瞑想会を開催しております。
両方とも終わりはなさそうです。
自分の中で「やめるかな」という時期は来たとしても「終える」はないのだろうと思います。
こういった終わりのない行法というのは面白いですね。
ずっとやっていられますからね。
ヨガも瞑想もまだまだ続けることでしょう。
それから、内観もそうです。
内なる世界というのにもキリがありません。
自分の中にある内なる世界が現実を作り出しているとも言います。
こちらの内なる世界を扱うことももっと増やしていこうと思います。
ではでは。