こんにちは。
生産性について、少しだけ考えることがありました。
ヨガを教えたり、アサナ(ヨガのポーズ)を練習したり、文章を書いたりとそういうことを生業としているのですが、外野の方(要するにいきなりタメ口コメントをブログやツイッターにするような人)が「生産性のあることをしろよ」みたいなことを言ってきたわけです。
なるほどと思いまして、ふと立ち返るとサービス業や情報業(物質が必要ないもの)など、多くの生業は生産していないなと思ったわけです。
ダンスをやられている人もそうだし、最先端の研究所の方々も一般の人から見れば生産しているようには見えない。
生産性のあることをしろよ、という人は物理的な生産ではなく「俺の価値観に合うことをしろ」ということなんでしょうね。
有名な方々はこういう人が山ほど群がってきて、絡まれるわけですね。
本当に大変なんだなと思いました。
今は、文章を読めない人もたくさんいると言います。
こちらの本も昔に話題になりました。
だから、発信している情報やコンテンツ自体が何を目的にしていて、何を解決したり、何に役立つのかも意味不明なのだと思います。
ややこしい世の中になってきてはいますが、文章が読めないと何がややこしいのかもわかりませんね。
それで、匿名で罵ってみるという呪いの方向へと向かってしまう人がいるわけです。
生産してないですよね
生産というのは消費と破壊と裏表なので、生産していないというのは、物理的に破壊もしていないわけです。
映像を撮ってる人も、物理的なことを生産はしていませんね。
でも、目の前にある物たちは全てどこかの企業が作ってくれたものです。
自分で作っている人もいるかもしれませんが、林業や製造業のお世話には何処かでなっているわけです。
昔にトースターをゼロから作ってみるという本もありましたね。
つい、変なコメントを書いて発散してしまう人は、本当に自分がやっていることを信じられなくて、そして自分のやっていることを認めてほしくて、それを人に言えず、周りで「うまいことやってそうな人」を見つけて、せっせと少しでもその人が傷つけばいいなと思って非生産的なことをしているわけです。
「俺を助けてくれ〜」と言っているようなものですね。
わたしにとっての生産的というのは、物理的なものではなく、社会や環境が少しでも調和した方向へと進んでいくことが生産的だと思います。
そして、すべてを生産的にすることは無理だし、すべてを生産的であろうと思うと苦しい。
できる範囲で、調和した方向へと行けるといいなと思っています。
一生懸命に日々を生きていくこと。
一見無駄なことが生産的あることもあるし、誰もが素晴らしいと思うことが非生産的なこともあるでしょう。
そういうのを感じて生きていけるほど、今の社会は発展したのだと思っています。
人は信じるものを見る
結局、人は信じるものを見てます。
信じないものは見てません。
見えないものを信じるとか信じないとかの話ではなく、あなたが解釈して判断した結果、あなたの信じていることをあなたが見ているのです。
あなたが見たいのに見えていないのは信じていないものです。
私たちは何を信じてきたのでしょうか。
Aさんがいたとして、あなたが見るAさんはあなたが信じてるAさんです。
友人が見るAさんは友人が見る別のAさんです。
他人のXさんが見るAさんは、Xさんの見るAさんです。
あなたの信じてることがあなたの住んでいる世界を作っています。
今見てる世界は、あなたの信じているあなたの世界なのです。
先の人のコメントも、勝手に解釈して判断して、その人の見る世界観でコメントしてしまっているわけです。
全員がそうです。
あなたはどんな世界に住んでいますか?
終わりに:心の生活習慣病
人はそれぞれの心の生活習慣病に罹っています。
何かしらの出来事に対して、感情の自動反応が起こります。
気づいたら、嫌な気持ちが生じていたり、楽しい気持ちが生じていたりします。
これはコントロールできません。
その感情をどう行動に繋げるのかは、コントロールできますが、勝手に沸き起こるものはコントロールできません。
この、自動反応が生活習慣病のように厄介な人がいます。
それを治していけるといいですよね。
それが、ヨガであったり瞑想であったりインサイトマップであったりするのだと思います。
世界は自分の見たいように見ています。
心の反応でその世界もぐちゃぐちゃになってしまっている人もいるかもしれません。
おすすめです。