脚下照顧という言葉があります。
全ては、常に足元にある、いまここに全てがあるんだよということです。
禅語なのですけど、いわゆる悟りというのものは君の足元にあるよという意味です。
常に足元にある。
いいじゃないですか。
あなたが何か困っていたとします。
解決策はどこか遠くのあるのではないのです。
足元にあります。
目の前の足元にあるということです。
自分以外のところに悩み事のヒントがあるわけではありません。
悩み事のヒントは足元にあります。
あなた自身であったり、すでに目の前に展開されていることにあるということです。
いかがでしょうか。
これを聞いてどう観じましたか。
足元は自分
悟りが足元にあると聞いてもちょっと大げさに聞こえるかもしれません。
そもそも、悟りってなあに、って話だったりもします。
自分が歩いてきた道のりに、解決すること(解決のいとぐち)はあるということです。
こういう風に言い換えると自分も使えそうな言葉になりますよね。
悟りという言葉ではなく目の前の課題や問題に置き換えてみると。
たとえば、自分が大きな失敗したとしても、その反省点は足元にある。
どこか遠くにはない。
だから、省みることもやりやすい。
だから、どこか遠くにあると思って旅に出てもダメです。
遠くあるのではなく、足元にあるんですから。
足元は異国の地にあるわけではありません。
自分にあるんですから。
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異国の地を探さない
「どこか遠くに私の問題を解決してくれるミラクルな何かがあるんじゃないか願望」はわかるんですが、それは通常は逃避と呼ばれるものです。
逃避。
逃避がダメということではなくて、逃避はいったん休憩してエネルギーを養うためにするものです。
体力が回復して、考えられるようになるためのものです。
直接的な解決をすることが逃避ではありません。
物事を進めるには、その物事をやらないといけません。
逃避していては進みません。
足元をごらん、というのは逃避せずに現実を直視して、やりましょうということ。
現実を直視して足元を見て、そしてしっかりと歩めば物事は解決できるよと言っています。
頼もしいですよね。
目の前のことを取り組んでみませんか。
疲れて過ぎていたら休む
逃避をしたくなってしまうくらいに疲弊しているなら、逃避は有効かもしれません。
休むことが必要なくらいに疲弊していることはあります。
そういったときは、これは英気を養っている時期なんだと思って休むことですね。
それを問題解決のために進歩的に行動していると勘違いしないこと。
ただ、そもそも、問題ではないことを問題だと思っているときは、逃避するだけで解決してしまったりします。
気分だけで問題だと思っているときは、その気分が変わってしまえば問題はどこかにいなくなります。
そういうときは有効かもしれません。
疲弊しているときは基本的には休むのがいいでしょう。
人は弱気ものなので、疲弊していないのに何もしないで逃避してしまうこともあります。
そのような場合は、いったんそんな自分を許してみてください。
それでいいと思います。
ややこしいのは、怠けて逃避しているだけなのに、「怠けているわけではない!逃避しているわけではない!」とそういった弱気な自分を認められない場合。
こういったときでも、本当はわかっている筈なんですよね、自分は。
そうですよね。
だって、感情的になっているから。
気づけるタイミングはやってくると思います。
ということで、脚下照顧。
足元にありますよ、ということです。
終わりに:出会えるようになっている
自分が経験して学んでいくのがこの地球での生まれた目的なのだと思います。
そのことを忘れてしまって、どこか遠くに何か奇跡的なことを求めてしまうと残念なことになります。
インドに悟りがあるわけではないですからね。
スピリチュアルをイギリスにいかないとわからないわけではないですからね。
自分の足元に全部あります。
必要なことには必然的に出会えるようになっています。
それは、完璧なタイミングでやってきます。
目の前のことを一生懸命に取り組んでいきましょう。
私もフワフワしてしまうことはありますが、そのようにやっていっております。
脚下照顧。
いい言葉ですね。