日々の生活の中で、ヨガや瞑想のクラスを終わったあと早めにふとんにもぐり込む日があります。
べっとりと汗をかいて目覚めると、昼食を抜いているのに不思議とお腹は減りません。
それでも少しだけ食事をとり、メールを確認し、ブログの更新だけは済ませて、再び眠りにつくのです。
次に目が覚めると翌朝になっており、なんとなく「峠を越した」という感覚が訪れます。
まだ節々に痛みは残っているものの、身体が快方に向かっているという確かな手応えを感じ取れるはずです。
こうした時間は、心身を軽くするための「浄化」のプロセスであり、集合的無意識の大掃除や、ちょっとした覚醒への準備のようなものだと言えるでしょう。
少し休む時間ができると、日頃の出来事をゆっくりと反芻することができます。
10年後の自分を書いたあるレポート(女子学生)の中で、に「独身」と答えた人はごくわずかだったそうです。
大半が「普通のサラリーマン」の夫を持ち、郊外に住み、子どもが二人いて、専業主婦をしているという未来を描いていました。
恋愛や結婚のロマンチックな詳細よりも、「子育て」において配慮すべき現実に思考の多くが割かれていたのです。
現代社会は、身長や年収、家の値段といった目に見えやすい「記号」ばかりを追い求める問題に覆われています。
フランスの思想家ジャン・ボードリヤールが提唱した「記号の消費」という概念がありますが、これはモノの実際の機能ではなく、それに付随するステータスやイメージを消費する社会現象のことです。
しかし、彼女たちのレポートからは、そうした単なるスペックや記号の消費を超えた、より現実的な生活の匂いが漂っていました。
何はともあれ、想像力を駆使することは私たちの生きる力と知恵になります。
細部までありありと想像された未来は、そうでない未来よりも実現される可能性が格段に高まるからです。
輪郭のくっきりした未来像には、私たちをその場所へと引き寄せる「牽引力」がたしかに存在します。
ここで明確にしておきたいのは、「妄想」と「想像」はまったく異なるということです。 妄想とは、徹頭徹尾「記号的なもの」に過ぎません。
一方で、想像とは「具体的なもの」を指します。
たとえば、「宇宙人が私を監視している」という妄想を持つ人にとって、宇宙人という存在は「宇宙人」という文字情報のレベルにまで縮減されてしまっています。
妄想には、生々しい「具体的な細部」が欠落しているのです。
具体的な細部とは、私たちが名前を知らないものや、それが何の機能を果たしているのかわからないものまでも包み込んでいる状態を意味するわけです。
真に奔放で豊かな想像力は、いまだ私が名付けられないものさえも、画像のディテールとして脳内に取り込む力を持っています。
いまだ訪れていない「私の結婚生活」を想像するときを例に挙げてみましょう。
「想像上の夫」の「歯の磨き方」や「シャツの袖のまくり方」、あるいは「トイレに置かれている本の並べ順」といった、どうでもいいような細部をありありと描けるのは、良質で強い想像力です。
逆に、「身長は175センチ以上で、年収はこのくらいで、首都圏から30分以内の建築費3000万円の白塗りの家で」というふうに、自分の思い描くものを「すべて既存の言葉や数字で言い換えられる人」は、想像力の具体性において非常に貧しいと言わざるを得ません。
具体的な想像力は「強い想像力」であり、記号的な想像力は「弱い想像力」なのです。
強い想像力は、現実を変成させる力を持っています。
名作と言われるアニメーション映画において「画面に映っていないところまで描き込まれている」と感じることはないでしょうか。
物理的には画面に映っていないのですから、見えないはずです。
しかし、映っていないものまで描き込もうとする過剰な想像力だけが、作品に独特の厚みと深み、そして高い波動やオーラを与えることができます。
現実の人生においても、それと同じことが起こるわけです。
東洋思想の歴史的な背景を紐解けば、古代インドのヨガ哲学には「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想があります。
これは、宇宙の根本原理(ブラフマン)と個人の本質(アートマン)が完全に一つであるという真理ですが、私たちの内側の想像力が深まるほど、外側の宇宙(現実)と共鳴しやすくなることを示唆しています。
とはいえ、強い想像力を持っているからといって、「100%想像した通りの未来」がそのまま手に入るという意味ではありません。
そうではなく、強い想像力を持った人は、あまりに多くのディテールを深く具体的に想像してきたため、実際に訪れるいかなる未来の中にも「ぴったり想像した通りの断片」を発見してしまう、ということなのです。
その小さな発見は、私たちにある種の「既視感」をもたらすはずです。 この既視感こそが、「宿命」というものを受け入れるための重要な構成要素となります。
だからこそ、想像力の豊かな人は、どのような人生のプロセスを選んだ場合でも、そこに「宿命の刻印」を直観的に感知できるのです。
「自分がいま立っているこの場所は、宿命が私を導いたほかならぬ場所である」と。
「いま自分の傍らにいる人は、宿命が私を引き合わせたほかならぬその人である」と。
そう心から信じられる人は、深いレベルで満たされています。
ヨガの悟りに至る実践段階を示す「八支則(はっしそく)」の中には、「足るを知る(知足)」という教えが含まれています。
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これは現状に不満を抱かず、今あるものに感謝を向けるというミニマリズムにも通じる姿勢です。
仏教や禅における「抜苦与楽(ばっくよらく:苦しみを抜き、楽しみを与える)」の教えとも重なりますが、継続して自己探求を行い、強い想像力を持って細部を愛せる人は、不足ではなく充足の世界にフォーカスすることができます。
ロシアの物理学者が提唱した「セルフトランサーフィン」の理論においては、物事の「重要性を下げる」ことが望む現実へ移行する鍵だとされています。
記号やスペックといった、振り子の法則(人々の意識を奪いコントロールしようとするエネルギーの渦)に巻き込まれることなく、重要性をふわりと下げて、自分だけの具体的な細部を楽しむこと。
そうやって心身脱落を目指し、執着をゆるめ、潜在意識の奥底にある自己と向き合っていくと、自然と身体を軽くすることが叶います。
想像力が豊かな人は、だからこそ構造的に幸福な軽い人なのです。
都会の喧騒の中で悩みや葛藤を抱えやすい私たちですが、時には日本一簡単な瞑想のように、ただ静かに座り、内観の時間を設けてみてください。
無駄な記号を減らすことで、不要な思い込みを手放すことができます。
動的ヨガである太陽礼拝や、倒立(ハンドスタンド)などで身体の滞りを流した後は、ふわりとした心地よい弛緩が訪れます。
そうして身軽になった「軽い自己」の状態で、未来のあり方をゆるりと想像してみましょう。
あなたのその強い想像力が、生命力あふれる豊かな現実を創り出していくはずです。






