現代のヨガ界において、アシュタンガヨガという言葉は、ある種の高揚感と憧れをもって語られます。ダイナミックに連動する呼吸とポーズ、日の出前に行われる厳格な朝の練習、そしてその圧倒的な運動量は、多くの実践者を魅了してきました。
しかし、この光に満ちたアシュタンガヨガの歴史の裏には、目を背けることのできない深い「闇」が潜んでいるのをご存じでしょうか。
近年、世界中を揺るがした指導者の不祥事や、身体を限界まで痛めつける過剰なドグマ(教義)の存在が明らかになりました。今回は、ヨガ哲学者としての視点から、アシュタンガヨガがもたらした光と影、そして現代の私たちがそこから学ぶべき本質的な教訓について、静かに考察してみましょう。
もくじ
二つのアシュタンガ。哲学と肉体
まず、初心者の方に向けて「アシュタンガ」という言葉の本来の意味を定義しておく必要があります。
サンスクリット語で「アシュタ」は「八」、「アンガ」は「枝(四肢)」を意味する言葉です。つまりアシュタンガとは、古代の聖者パタンジャリが『ヨーガ・スートラ』で説いた、ヨガを実践するための「八つの体系(八支則)」を指します。これには、以下のステップが含まれていました。
1.ヤマ(禁戒:社会的にやってはいけないこと)
2.ニヤマ(勧戒:個人として遵守すべきこと)
3.アーサナ(坐法:ポーズをとること)
4.プラナヤマ(調息:呼吸を整えること)
5.プラティヤーハーラ(制感:感覚を内側に引き戻すこと)
6.ダーラナ(凝念:集中すること)
7.ディヤーナ(静慮:瞑想状態に入ること)
8.サマディ(三昧:超意識、悟りの境地)
一方で、現代において広く知られている「アシュタンガヨガ(アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨガ)」は、近代インドの指導者パタビジョイス師によって体系化された、非常に身体的なヨガのスタイルを指します。
決まった順番のポーズを呼吸に合わせて流れるように行うこの流派は、本来の精神的な修行としての八支則のうち、肉体的な「アーサナ」に極めて強いスポットライトを当てたシステムだと言えるでしょう。このアプローチ自体が、現代のフィットネスカルチャーと合流することで爆発的なブームを巻き起こしたのです。
第一の闇。絶対的権力とグルの不祥事
アシュタンガヨガを語る上で避けて通れない最大の影は、創始者であるパタビジョイス師による女性生徒への性的不祥事の告発にあります。
2010年代後半、いわゆる「#MeToo」運動の広がりとともに、かつてインドのマイソールで彼から「不適切なアジャストメント(身体の補正)」と称する性的な虐待や侵害を受けたという多くの証言が公にされました。神格化されたカリスマ指導者に対して生徒が一切の疑問を持てなくなる、極めて不均衡な力関係が生み出した闇と言わざるを得ません。
東洋思想の師弟関係(グルとシシャ)においては、時に師に対する絶対的な服従(サレンダー)が求められることがあります。しかし、この美しい伝統的な信頼関係が、指導者側のエゴ(アスミター)や欲望(ラーガ)によって歪められ、搾取の道具として機能してしまったのが実態です。神の如く崇められた指導者が一人の人間としての弱さに負けたとき、聖なるヨガスタジオはトラウマを生み出す場所へと変貌してしまいました。
この告発は、世界中の多くのアシュタンガヨガの実践者、特に指導者たちに深刻なアイデンティティの危機をもたらしました。「自分の愛するプラクティス(練習)の源流が、これほどまでに濁っていたのか」という問いは、伝統を盲信する危うさを私たちに痛烈に突きつけています。
第二の闇。身体のドグマと痛みの神聖化
もう一つの影は、あまりに過酷なポーズの練習と、それに伴う深刻な身体的怪我の常態化にあります。
アシュタンガヨガのマイソールクラス(自主練習形式)では、指導者から身体を強く圧迫される「アジャストメント(徒手補正)」を日々受けることになります。ポーズを深めるためという名目のもと、時には指導者が生徒の背中に乗ったり、関節を無理やり押し広げたりする指導が行われてきました。これによって多くの実践者が靭帯を損傷したり、膝や腰を痛めたりする事態が相次ぎました。
ヨガの本質は、心の波立ちを静め、自己の内側に安らぎをもたらすプロセスであるはずです。それにもかかわらず、練習中における激しい痛みは「好転反応」や「カルマ(業)の浄化」という都合の良い言葉で正当化されていきました。
「痛みを伴ってこそ、真の浄化が起こる」という物語が、一種の狂信的なドグマ(教義)としてコミュニティを支配していったのです。これは、身体の声を無視してエゴ(アスミター)の要求に従わせる、一種の「内なる暴力」と言わざるを得ません。痛みに耐える自分に酔い、肉体を限界まで酷使する練習は、本来の調和からかけ離れたものになってしまいます。
第三の闇。精神的物質主義とシリーズの階層化
アシュタンガヨガは、ポーズの難易度によって練習のシリーズが段階的に決められています。次のポーズに進むためには指導者の許可が必要であり、この仕組みが信者たちの間に「序列」を生み出すことになりました。
より高度なシリーズを練習しているヨギーが優れており、進めないヨギーは未熟であるという、目に見えないカースト制度のような階層が生まれたのです。
これは、チベット仏教の指導者が警告した「スピリチュアル・マテリアリズム(精神的物質主義)」そのものに他なりません。精神的な成長や自己探求のプロセスさえも、自分のエゴを満足させ、他者に対して優越感を抱くための道具として消費してしまっているのです。
「私はどこどこのシリーズまで進んでいる」「インドのシャラ(道場)から正式な指導資格を授与された」といった外面的な記号への執着が、ヨガの実践者を最も深いエゴの罠へと陥れていきました。本来、すべての執着を手放すためのヨガが、いつの間にか新しい「ステータス(社会的地位)」を獲得するための競争に成り下がってしまったと言えます。
本来の静けさへ。余計なものを削ぎ落とすミニマリズム
アシュタンガヨガを愛し、今も練習を続けているすべての人を否定したいわけでは決してありません。このシステムが持つダイナミックな爽快感や、日々のルーティンがもたらす精神的な安定効果は、今なお多くの人にとって有益なツールとなり得ます。
大切なのは、そのシステムを盲信するのをやめ、私たちの意識の主権を取り戻すことです。伝統の陰に隠された人間的な弱さや制度の闇をそのまま直視し、何が真実で、何が虚構であるかを「識別(ヴィヴェーカ)」する知性が求められるでしょう。
本当に必要なのは、難解なアクロバットを完璧にこなして他者に見せびらかすことではありません。今ここにある自分の呼吸と身体の感覚を、優しく穏やかに内観することです。
EngawaYogaでは、身体を柔らかくほぐすために「ユルユル」に力を抜くことを提案しています。緊張でガチガチになった肉体を解放した上で、ただ静かにそこに座るだけの日本一簡単な瞑想(SIQAN)を試してみてください。アシュタンガヨガが私たちに残した最大の教訓は、どれほど美しく厳格な伝統であっても、外側の権威に自分の「安らぎ」を明け渡してはならないという警告に他なりません。
おわりに。闇を経て光を照らす
アシュタンガヨガという壮大な社会実験の歴史は、私たちに多くの傷跡と、それ以上の深い気づきを残しました。外側の記号や過酷なポーズの獲得を競う「足し算のヨガ」に疲れ果てたなら、いつでも引き算のヨガへと戻ってきてください。
今ここにある不完璧な自分のままで十分に満たされているという「サントーシャ(足るを知る)」の輝きは、いかなる権威も奪い去ることはできないのです。
都会の真ん中で静かに目を閉じ、本来の軽やかさを取り戻すための一歩を、今ここから踏み出していきましょう。




