私は瞑想をするのが好きで、ほぼ毎日瞑想は取り入れております。2005年ぐらいから瞑想を続けていますでしょうか。
波動の法則という書籍で、瞑想は脳の周波数変換である、というようなことが書かれており、興味を持ったのを覚えています。
人は瞑想的でないので、瞑想的な生活をすると心地よく過ごせると感じています。
瞑想的な生活をすることで、「あなた」を知ることにもなると思います。瞑想でしか近づけないところというのがあると思います。
瞑想をやられたことはありますか。
ご興味がある方は、ヨギボズなどにお越し頂けると、瞑想を体験頂けます。
瞑想と聞いて、何を感じるかは人それぞれですが、瞑想を通してこのリアルな現実を知ることにもつながると思っています。
過去や未来という幻想から離れることにもつながります。瞑想は手放すことにもつながります。
瞑想は人生で抱えているものを降ろすこと
瞑想というのは「得る」という方向性を持ったものではなく、「手放す」という方向性を持ったものです。
日々、いろんなものを抱えておりませんか。
沢山、抱えすぎてしまっていることはありませんか。
そういった人生の重荷を降ろすことが瞑想です。人生の重荷を降ろすとかなり楽になります。
瞑想はただ座っているだけに見えるかもしれませんが、いまここにあるという実存状態です。
そのときにはすべてがフラットになっているのです。フラットです。
だから、結果として重荷が降りるのです。
自然と「これは私にはいらない」と自分で感じて重荷を降ろせるのですね。こだわりも薄くなっていきます。
重荷は、あなたが決めていること

重荷になるというのはどういうことかというと、それを大事だと認識しているからです。
そこにエネルギーが注がれています。重荷にエネルギーが注がれているのですね。
そして、大事だと思っている為、手放すことも難しく、そして大事ということは重要度が高い為、執着の対象になるのです。
重荷はあなたが決めていることなのです。
あなたが決めているからそれが重荷となるのです。
同じような事象に対しても重荷にならない人もいますね。
それは、その人にとって重要な問題ではないから重荷にならないのです。
その重要度をフラットにして、問題そのものがなかったことにするのが瞑想です。
瞑想を通して、問題がなかったことに気付けるのです。
瞑想中は何もしなくていい
瞑想中というのは基本的に何もする必要はありません。
ただ在るという感覚に浸っていればいいのです。
何をしても、何をしなくても、あなたはただ在るのです。
寛ぎの中へと入って、そのままであればいいのです。
目の前の現象に一喜一憂したり、一つ一つを解決しないと幸せになれないなどど考える必要はなく、ただ座っていればいいのです。
自分の命を信じて寛いでいればいいのですね。
難しいですか。
その難しさを手放していけば楽になると思います。

座禅と瞑想
私は座禅をちゃんと勉強したことはないのですが、座禅をやられている方の話を聞いていると瞑想と座禅は違いは結構あると思います。
座禅は只管打坐と言われるようにただ座ります。瞑想もただ座るのですが、もう少し色んなことをします。
阿字観瞑想では、お軸も見ます。月輪観では月の輪をイメージします。ヴィパッサーナー瞑想では、観察し続けます。
座禅はただ座ります。ただただ座ります。
なので、違いがあるのですが、目指すところは同じで、心身一如(梵我一如)です。
好きな方から入られるのがよろしいかと思います。私は座禅に近い瞑想をやっていることが多いです。
ただ座っているというのも、気持ちがいいものなのです。命が輝いているのを感じるのです。光そのもである、という感覚もあります。
暖かい空間に包まれたような感覚にもなります。力む必要はなく、ただ座るのですね。
このように座っている時間を持つと、その時の波動や雰囲気が人にも伝わるようで、物事がスムースに進んだりします。
人と息が合うのですね。息が合ってくるからスムースに展開されていくのです。
瞑想的な生活というのは、勝手に展開される循環に身を置くことになるのだと思います。
終わりに:瞑想は静寂
リラックスと瞑想は異なるのですが、瞑想にリラックスは大事に思います。
力みを持って瞑想状態へは入りにくいと思います。
座って、自分の中にある静寂へとくつろいでいくのが瞑想です。
ソースとつながる、などという言い方をされる人もいますね。
ソースとのつながりを起こすには、静寂の中にくつろぐことが必須です。
思考を止めようと思うことも必要なく、ただただ静寂に入っていくのです。
静寂を日常生活でも持ち運べるといいですね。
ヨガもそこを目指しているものです。
難しいことは置いといて、遊びにでも来てください。

補足しますと、瞑想の種類によってはイメージ瞑想や呼吸に意識を持っていく瞑想もあります。
それは、導入であったりプロセスであったりしますが、その先の瞑想状態では起こることが起こっているという、ただ在るという状態だけになります。