紙の本が好きでした。
ページをめくる時の指の感触、インクの匂い、装丁の美しさ。
本棚に並んだ背表紙を眺めては、「これだけの知識が自分にはあるのだ」という、ある種の知的満足感に浸る時間も好きでした。
しかし今、私はその愛着ある本たちを手放し、Kindle(電子書籍)へと全面的に移行を進めています。
これは単なる「部屋の片付け」や「便利さの追求」ではありません。
私にとって、これは一つのヨガ的な実験であり、精神的な修行(サダーナ)のプロセスでもあります。
今日は、紙の本から電子へ移行することで見えてきた、モノへの執着、知識へのエゴ、そして「手放すこと(ヴァイラーギャ)」の本質について、少し深くお話ししてみたいと思います。
もくじ.
現代社会の「積ん読」という名の重荷
現代社会において、本は「知識」の象徴であると同時に、「消費」の象徴でもあります。
書店に行けば、毎日膨大な数の新刊が並んでいます。
「この知識がないと時代に遅れる」「このベストセラーを読んでいないと話についていけない」
そんな焦りや不安から、私たちは次々と本を買い込みます。
そして、その多くは読まれないまま「積ん読」となり、部屋の隅で静かにプレッシャーを放ち続けます。
物理的な重さは、心理的な重さとなって私たちにのしかかります。
本棚を埋め尽くす本たちは、過去に自分が興味を持ったものの残骸であり、あるいは「いつか読まなければならない」という未来への負債でもあります。
私たちは知らず知らずのうちに、知識欲という名のエゴによって、自分の居住空間と精神的スペースを圧迫してしまっているのです。
ヨガ哲学から見る「所有」の意味
ヨガの八支則にある「アパリグラハ(不貪)」は、必要以上のものを所有しないこと、執着しないことを説いています。
これは、モノだけでなく「知識」に対しても適用されます。
私たちは本棚を見るたびに、「私はこれだけのことを知っている」という自我(エゴ)を強化しています。
しかし、本棚にある知識は、本当に「あなたのもの」でしょうか?
本に書かれていることは他人の言葉であり、それをただ並べているだけでは、あなたの智慧にはなっていません。
本当の智慧(パンニャ)とは、本棚にあるものではなく、実践を通してあなたの血肉となり、思考や行動に現れるものです。
もし内容が身についているのなら、物理的な本はもう手放してもいいはずです。
逆に、身についていないのなら、それはただの紙の束です。
Kindleへの移行は、この「知識の所有」という幻想を解体する作業でもあります。
電子データには物理的な実体がありません。背表紙を並べて悦に入ることはできません。
そこにあるのは純粋な情報だけであり、読み終わればクラウドの彼方へと消えていきます。
それは「所有する読書」から「体験する読書」へのシフトです。
知識を溜め込むのではなく、川の水のようにさらさらと自分の中を通過させ、必要な栄養分だけを吸収していく。
そんな軽やかな知性との付き合い方が、これからの時代には必要なのではないでしょうか。
ミニマリズムの先にある「空(くう)」の感覚
実際に、数百冊の本を処分し、Kindle端末一台に集約してみると、部屋の空気が劇的に変わりました。
物理的な空間が空くと、そこには「気(プラーナ)」が流れるスペースが生まれます。
視覚的なノイズが減ることで、思考のノイズも減っていきます。
Kindle端末は薄く、軽く、何千冊もの本が入っていますが、物理的には「ほぼ無」です。
この「すべてを持っているのに、何も持っていない」という感覚は、ヨガ哲学における「空(くう)」の概念に通じるものがあります。
物質的な制約から解放され、必要な時に必要な情報だけにアクセスする。
それは、重たい肉体という制限を超えて、意識だけで自由に飛び回るような感覚に似ています。
旅に出るときも、以前は「どの本を持っていくか」で悩み、鞄を重くしていました。
「もしかしたら読むかもしれない」という不安が、荷物を増やしていたのです。
今はKindle一つ。不安という荷物が減った分、足取りは軽くなりました。
どこにいても、世界中の図書館と繋がっている安心感。
これは、依存ではなく、テクノロジーを使った賢い「依拠」だと言えます。
(と言いつつ、その後まだ紙の本を集め始めております笑)
スピリチュアルな視点:エネルギーの代謝を良くする
スピリチュアルな視点で見れば、古い本は「過去のエネルギー」の塊です。
10年前に感銘を受けた本も、今のあなたにとってはもう必要のないメッセージかもしれません。
それらをずっと手元に置いておくことは、エネルギーの代謝(メタボリズム)を滞らせることになります。
手放すことは、入ってくるスペースを作ることです。
古い知識を手放せば、新しいインスピレーションが入ってきます。
「読みたくなったら、また電子で買えばいい」
そう思えることは、宇宙の豊かさ(アバンダンス)を信じることでもあります。
「二度と手に入らないかもしれない」という欠乏のマインドセットから、「必要なものは必要なタイミングで必ず与えられる」という充足のマインドセットへ。
Kindleへの移行は、そんな意識変容のトレーニングにもなっています。
それでも残る、紙の温もりと身体性
もちろん、すべての本を電子にするわけではありません。
写真集や画集、どうしても紙の質感で味わいたい詩集、あるいは書き込みをしてボロボロになるまで使い倒したい専門書。
そういった「魂が震えるような本」は、厳選して手元に残します。
それはもはや情報の媒体ではなく、愛着のある「法具」のような存在です。
デジタルとアナログのバランス。
すべてを効率化するのではなく、身体性が必要な部分は大切に残す。
この「選択」こそが、自分の感性を研ぎ澄ますことになります。
何を残し、何を手放すか。
その問いかけを繰り返すこと自体が、自分自身を知る(スヴァディヤーヤ)ための瞑想的な時間となるのです。
終わりに:デバイスはただの窓
Kindleというデバイスは、それ自体が目的ではありません。
それは知識の海へと続く、小さくて透明な「窓」に過ぎません。
窓枠(ハードウェア)に執着するのではなく、窓の向こうに見える景色(内容)に集中すること。
そして最終的には、その景色さえも手放し、ただ静かに座って、自分自身の内なる声に耳を澄ますこと。
本を減らすことで、私たちは「読む」時間よりも、「感じる」時間を増やすことができるかもしれません。
知識を詰め込むのをやめて、空っぽのスペースに身を委ねる。
その時、私たちは書物の中には書かれていない、生命そのものの智慧に触れることができるのです。
ミニマルになることは、貧しくなることではありません。
余計なものを削ぎ落とし、本質だけを輝かせること。
それはまさに、ヨガが目指す「カイヴァリヤ(独存・完全なる自由)」への道と重なっています。
重たい本棚を背負うのをやめて、風のように軽やかに。
Kindle片手に、あるいは手ぶらで、知の旅を楽しんでいきたいと思います。
ではまた。


