ヨガを推奨しております。
それは、ヨガが私たちを「何者か」にするためのものではなく、「何者でもない場所」へと連れ戻してくれるからです。
昨今、ヨガのスタジオやSNSを見渡しますと、非常に美しく、芸術的なアーサナ(ポーズ)の写真や動画が溢れています。
しなやかな肉体、洗練されたウェア、音楽に合わせた流れるような動き。
それらは大変に美しく、見る人の心を惹きつけます。
そして、そうした文脈の中でしばしば語られるのが、「ヨガで自分を表現しよう」「ヨガは自己表現のアートだ」という言葉です。
しかし、ここで一度、立ち止まって深く考えてみる必要があります。
果たして、ヨガは自己表現のためのツールなのでしょうか?
現代社会は「個性を出せ」「自分らしさを表現しろ」と、私たちに強烈なプレッシャーをかけてきます。
その波が、本来は世俗から離れるための実践であるヨガにまで押し寄せているように感じます。
今日は少し厳しいことを申し上げるかもしれません。
ですが、ヨガの本来の目的と、現代的な「自己表現」という概念の間に横たわる決定的な違いについて、哲学的な視点から紐解いていきたいと思います。
「表現する私」とは誰なのか
まず、「自己表現」という言葉を分解してみましょう。
自己を表現する。つまり、内側にある「私」という個性を、外側に向かってアウトプットする行為です。
そこには必ず「見てほしい私」「伝えたい想い」「独自の感性」というものが存在します。
では、その「表現したがっている私」とは、一体誰なのでしょうか?
ヨガ哲学では、これを「アハンカーラ(自我意識)」と呼びます。
「私はこういう人間だ」「私はこれだけ柔軟性がある」「私はこんなにクリエイティブだ」
そう主張したがっているのは、私たちの本質的な魂(プルシャ)ではなく、肥大化したエゴ(自我)に他なりません。
アートやダンスの世界において、このエゴの情熱や葛藤を昇華させ、作品として表現することは素晴らしい営みです。それは否定されるべきではありません。
しかし、ヨガという文脈においては、少し事情が異なります。
なぜなら、ヨガの根本経典『ヨガ・スートラ』の冒頭には、こう記されているからです。
「ヨガとは、心の作用を死滅させることである(ヨーガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダ)」
心の作用、つまり「私を見て!」と騒ぎ立てるエゴの波を静めることこそがヨガです。
もし、ヨガをすることで「もっと私を見てほしい」「もっと美しく表現したい」という欲求が強まっているのなら、それはヨガをしているようでいて、実はエゴの強化トレーニングをしているに過ぎないのかもしれません。
波を静めるはずが、自ら波を荒立てているようなものです。
受け手と発信者という「分離」を生む
自己表現には、必ず「受け手(観客)」が必要です。
SNSで発信するならフォロワーですし、スタジオならインストラクターや他の生徒かもしれません。
「表現する」という意識を持った瞬間、そこには「見る私」と「見られる私」という二元論、つまり「分離」が生まれます。
他者の視線を意識したヨガは、もはや内観ではありません。パフォーマンスです。
「この角度が綺麗に見えるか」「このシークエンスは感動を与えるか」
意識が外へ外へと向かうとき、私たちは自分の身体の内側で起きている微細な感覚、プラーナ(気)の流れ、そして静寂を見失います。
現代思想家の言葉を借りるならば、私たちは「市場価値のある私」を演出することに疲れ果てているのではないでしょうか。
ヨガマットの上でさえ、他者からの評価や「いいね」の数を気にして、自分を演出する必要があるのでしょうか。
ヨガは、ショーではありません。
誰に見せるためでもなく、誰に評価されるためでもなく、ただ淡々と、自分自身の生命現象と向き合う時間です。
そこには、拍手も賞賛も必要ありません。
ただ、吸う息と吐く息があるだけです。
透明なパイプになるということ
では、ヨガにおいて「個性」は邪魔なものなのでしょうか?
スピリチュアルな観点から少し補足しましょう。
ヨガや瞑想が深まっていくと、私たちは「自分」という固形物が溶けていくような感覚を味わいます。
「私がやっている」という感覚(Doership)が希薄になり、大いなる流れの中で「動かされている」という感覚へシフトしていきます。
これを「明け渡し(イシュヴァラ・プラニダーナ)」と言います。
本当の美しさや、ハッとするような感動は、「私が、私が」と自己主張している時には生まれません。
むしろ、「私」というエゴが脇へ退き、自分がただの透明なパイプ(媒体)になった時、その空洞を通して、宇宙の理(ことわり)や生命の輝きが、そのまま流れ込んでくるのです。
もし、熟練したヨギのアーサナを見て感動するとしたら、それは彼らが「自己表現」をしているからではありません。
彼らが極限まで「自己を滅却」し、自然の法則そのものと一体化しているからです。
私たちは、彼らの「個性」を見ているのではなく、彼らを通して「普遍的な真理」を見ているのです。
我(が)が消えた時、神が宿る。
古来より、東洋の芸道や武道が目指してきた境地も、ここにあるのではないでしょうか。
「からっぽ」であることの豊かさ
現代社会は、私たちに「何者かになれ」と煽ります。
特別な才能、特別なストーリー、特別なキャラクターを持った「何者か」であることを求めます。
それはとても苦しいことです。
常に何かを付け足し、武装し、アピールし続けなければならないからです。
だからこそ、EngawaYogaでは提案したいのです。
ヨガの時間だけは、「表現すること」を休んでみませんか、と。
何かを付け足すのではなく、削ぎ落とす。
色を塗るのではなく、透明になる。
意味を持たせるのではなく、ただ在る。
ヨガとは、あなたが背負っている重たい「キャラクター」や「役割」という衣装を、一枚一枚脱ぎ捨てていくプロセスです。
会社員としての私、親としての私、あるいは「ヨガができるお洒落な私」。
それら全ての定義を手放して、ただの生命体に戻る場所です。
自己表現をやめると、どうなるか。
退屈になるでしょうか? いえ、逆です。
「私」という小さな枠組みから解放され、圧倒的な自由を感じるはずです。
「どう見られるか」という呪縛から解き放たれ、子供のように純粋な身体感覚を取り戻すことができます。
風の音が聞こえるようになります。
自分の心臓の音が聞こえるようになります。
何もしない、何も表現しない、ただの「空(くう)」であること。
その「からっぽ」の状態こそが、無限の可能性を秘めた、最も豊かな状態なのです。
生活というアートへ
マットの上での自己表現をやめた時、逆説的ですが、あなたの人生そのものがアートになります。
それは「見せるためのアート」ではなく、「生きるというアート」です。
整った呼吸、穏やかな眼差し、丁寧な所作。
エゴの力みが取れた人の立ち居振る舞いは、それだけで周囲に安らぎを与えます。
特別なパフォーマンスをしなくても、ただそこに座っているだけで、調和のバイブレーションが広がっていく。
これこそが、ヨガの実践者が目指すべき姿ではないでしょうか。
縁側に座って、庭を眺めている時、私たちは何かを表現しようとは思いません。
ただ、季節の移ろいを感じ、光の変化を受け取っています。
私たちは「発信機」である前に、優れた「受信機」であるべきです。
世界はこんなにも美しく、メッセージに満ちているのに、私たちが「自分のこと」ばかり叫んでいては、その声を聞き逃してしまいます。
終わりに:沈黙への招待
もしあなたが今、ヨガをしていて「もっとうまく表現したい」「個性を出したい」と焦りを感じているのなら、一度その荷物をそっと下ろしてみてください。
あなたは、何も表現しなくていい。
何か素晴らしいものになろうとしなくていい。
すでに、そのままで完全な存在(プールナ)なのですから。
ヨガマットの上は、劇場ではありません。
そこは、あなたがあなた自身へと還るための、静かな聖域です。
言葉を減らし、表現を減らし、思考を減らす。
その沈黙の先に、本当の「自己」との出会いが待っています。
表現するのではなく、ただ、観ること。
それが、ヨガの始まりであり、終わりでもあります。
ではまた。


