ヨガを推奨しております。
しかし、時々ふと立ち止まって問いたくなるのです。
私たちが今、「ヨガ」と呼んでいるものの正体はいったい何なのか、と。
スタジオの鏡に映る自分のポーズを確認し、「今日は綺麗にできた」と満足する。
あるいは、最新のヨガウェアに身を包み、難易度の高いアーサナ(ポーズ)を決めた写真をSNSにアップロードし、つく「いいね」の数に一喜一憂する。
健康のため、美容のため、そして「丁寧な暮らし」をしている自分を確認するため。
もし、ヨガの目的がそこにあるのだとしたら、少し厳しい言い方になるかもしれませんが、あえて言わせていただきます。
それはヨガではありません。
それはただの「ナルシシズムの変装」です。
今日は、現代ヨガが陥りがちなこの甘美な罠と、そこから抜け出し、ヨガ本来の目的である「真の自由」へと至る道について、少し深くお話ししてみたいと思います。
ヨガマットの上の「ファッションショー」
現代社会は、私たちに「見られること」を強要します。
「自分をブランディングせよ」「個性を表現せよ」「魅力的であれ」。
資本主義の要請と、承認欲求という名の麻薬は、聖域であるはずのヨガマットの上にまで侵入してきました。
本来、ヨガとは「内側への没入(プラティヤハラ)」です。
目を閉じ、感覚のプラグを外側の世界から引き抜き、自分自身の内なる宇宙へとダイブしていく行為です。
そこには、他人の視線も、鏡の中の自分も、社会的な評価も存在しません。
ただ、呼吸と、鼓動と、静寂があるだけです。
しかし、現代の多くのヨガシーンでは、視線は常に「外」を向いています。
「私のポーズはどう見えているか」「隣の人より身体が柔らかいか」「このウェアは私に似合っているか」。
意識が自分の外見や評価に向けられている限り、それはヨガではなく、エゴを満足させるためのパフォーマンスに過ぎません。
「私はスピリチュアルで意識の高い人間だ」という、新たなラベル(レッテル)を自分に貼り付けるための儀式になってしまっているのです。
これを、チベット仏教の指導者チョギャム・トゥルンパは「スピリチュアル・マテリアリズム(精神的物質主義)」と呼び、厳しく戒めました。
物質的な欲望を満たす代わりに、精神的な装飾品でエゴを着飾っているだけだ、と。
「ナルシシズム」という名の檻
ナルシシズム(自己愛)とは、自分を愛することではありません。
むしろ逆です。
等身大の自分を受け入れられないからこそ、理想化された「虚像としての自分」を作り上げ、それに恋焦がれている状態です。
ヨガを使って「美しい私」「整っている私」という虚像を強化しようとすればするほど、私たちは苦しくなります。
なぜなら、その虚像を維持するために、絶えず努力し、他者と比較し続けなければならないからです。
「今日はポーズがうまくいかなかった」「あの人の方がスタイルがいい」
そうやってジャッジ(判断)を下し続けている限り、ヨガマットは安らぎの場所ではなく、新たな競争の場、あるいは自分を裁く法廷になってしまいます。
それは、檻です。
「素敵な私」でいなければならないという、見えない檻の中に、自らを閉じ込めているのです。
ヨガとは、自分を「消す」練習
では、本来のヨガとは何でしょうか。
それは、自分を輝かせることでも、何かを付け足すことでもありません。
ヨガ(Yoga)の語源であるユジュ(Yuj)は「結ぶ」という意味ですが、何と結ばれるのでしょうか?
それは、エゴという小さな殻を破り、大いなる全体(ブラフマン)と結ばれることです。
そのためには、邪魔なものを「減らす」必要があります。
ヨガとは、自分を大きく見せる練習ではなく、自分を「消す」練習なのです。
「私」という主語を、少しずつ手放していくこと。
ポーズをとっているのは「私」ではなく、自然の重力と呼吸のエネルギーであると感じること。
瞑想の中で、名前も、肩書きも、過去も、未来も消え去り、ただ純粋な「意識」だけが残る瞬間を味わうこと。
その時、私たちはナルシシズムの檻から解放されます。
「特別でなくてもいい」「すごくなくてもいい」「ただ、ここに在るだけでいい」
その圧倒的な安心感。
それこそが、ヨガが目指す「カイヴァリヤ(独存・解脱)」への入り口です。
現代社会の処方箋としての「手放し」
私たちは日々、あまりにも多くの荷物を背負わされています。
「勝ち組」にならなければというプレッシャー、情報の洪水、人間関係の摩擦。
そんな中で、ヨガまで「頑張るもの」「達成するもの」にしてしまったら、私たちの魂は休まる場所がありません。
だからこそ、EngawaYogaでは提案します。
一度、すべての「装飾」を下ろしてみませんか。
おしゃれなウェアでなくても、動きやすい部屋着で構いません。
難しいポーズができなくても、ただ座って呼吸するだけで十分です。
鏡のない場所で、あるいは目を閉じて、自分の内側の感覚だけに耳を澄ませてみてください。
「綺麗に見えるか」ではなく、「心地よいと感じているか」。
「正しくできているか」ではなく、「呼吸が通っているか」。
そのシンプルな感覚に立ち返ったとき、ヨガは「変装」であることをやめ、あなたの人生を支える太く確かな根っこになります。
エゴを超えた先にある、本当の美しさ
誤解しないでいただきたいのは、私は「美しくなること」を否定しているわけではありません。
エゴを手放し、内側が整い、生命力が満ちてくれば、人は自然と美しくなります。
肌には艶(オージャス)が宿り、瞳は澄み、姿勢は天と地をつなぐように伸びやかになります。
しかし、それは「見せるための美しさ」ではなく、内側から溢れ出る「生命の輝き」としての美しさです。
作為のない、ただそこにある花のような美しさです。
ナルシシズムの変装を脱ぎ捨てて、素っ裸の魂(もちろん比喩ですが)で、マットの上に立ってみてください。
そこには、誰からの承認も必要としない、絶対的な自由が待っています。
ヨガとは、その自由への帰還の旅路なのです。
縁側でお茶をすするように、気負わず、飾らず、ただ静かに座りましょう。
その何もない時間の中にこそ、すべてがあります。
ではまた。


