ヨガを教えさせていただく立場にありながら、少し奇妙に聞こえるかもしれませんが、私は「教える」という行為そのものに、あまり重きを置いておりません。
もちろん、それは怪我を防ぐためのサポートや、より深めるための智慧を出し惜しみするという意味ではありません。
そうではなく、「手取り足取り、細かく教えすぎない」というスタンスを大切にしているのです。
なぜなら、過剰に教えること、あるいは過剰に教わろうとすること自体が、ヨガの本質的な在り方から遠ざかってしまう行為だと感じているからです。
ヨガとは、誰かに正解を教わる授業ではありません。
あなた自身が、あなた自身の身体と心を通して、何かを「見つける」あるいは「気づく」ための時間なのです。
「先生、これで合っていますか?」という問いの危うさ
スタジオでよく耳にする言葉があります。
「先生、このポーズはこれで合っていますか?」
「どこに力を入れるのが正解ですか?」
この問いの裏側には、ある種の「恐れ」が見え隠れします。
それは、「間違えたくない」という恐れです。
間違えることは恥ずかしいことだ、効率が悪いことだ、損をすることだ。
そう思い込んでいると、私たちは無意識のうちに「正解」を探し始めます。
そして、その正解を持っている(と思われる)指導者に、答えを委ねようとします。
しかし、これは少し厳しい言い方になりますが、一種の「依存」です。
「私の身体のことを、私よりも先生の方が知っているはずだ」という放棄。
あるいは、「手っ取り早く、失敗せずに、結果(柔軟性や健康)だけが欲しい」という消費的な態度。
病気を治したい、柔らかくなりたい。その願い自体を否定はしません。
練習を重ねれば、身体は自然と変わり、柔軟性も高まっていくでしょう。(もし変化がない指導者がいるとすれば、それは単にその人が練習不足なだけかもしれません)
しかし、それはあくまで副産物です。
ヨガの本質は、もっと深いところにあります。
自分の問題は、自分へのサイン
ポーズをとっていて、どこかに痛みを感じたとします。
あるいは、呼吸が苦しいと感じたとします。
それは、「やり方が間違っているから、先生に直してもらおう」という問題ではありません。
それは、あなたの身体からあなた自身へ送られた、大切な「サイン」です。
「今は頑張りすぎているよ」
「そこにはまだスペースがないよ」
「心が焦っているよ」
そのサインを受け取り、解読できるのは、世界でたった一人、あなただけです。
指導者は、そのサインに気づくための灯りをともすことはできますが、サインの意味を代わりに読み解くことはできません。
もし指導者が「あ、そこ痛いですね、じゃあこうしましょう」とすぐに答えを出してしまったら、あなたが自分の身体と対話する、かけがえのない機会を奪ってしまうことになるのです。
迷子になることを、許容する
正解がある、と思うことは自由です。
しかし、正解を求めると、私たちは「正しい選択」を探し始めます。
そして、「間違った選択をしたくない」という防衛本能が働きます。
するとどうなるか。
自分の感覚を信じることをやめ、外側の情報、権威ある先生、ハウツー本の中に答えを探し回るようになります。
これをヨガでは、自分自身からの乖離(かいり)と呼びます。
ヨガのマットの上は、安全に迷子になれる場所であってほしいのです。
「あれ、この角度だと息が吸いにくいな」
「こっちに重心をかけると、なんか心地いいな」
そうやって、試行錯誤し、揺らぎ、迷うプロセスそのものが、ヨガの練習です。
効率よく最短距離で目的地(完成形)に着くことには、何の意味もありません。
迷いながら歩いた道端にこそ、思いがけない美しい花が咲いていることに気づくこと。
それが「気づき」です。
自立した旅人であれ
私の役割は、地図を渡すことでも、目的地までおんぶして運ぶことでもありません。
ただ、「自分の足で歩く感覚」を思い出してもらうために、そっと背中を押すことだけです。
手取り足取り教えられないことへの不満を感じる方もいるかもしれません。
しかし、その不満こそが、依存心への気づきとなるかもしれません。
「ああ、私は誰かに正解を教えてほしかったんだな」と気づくこと。
それもまた、大きなヨガの果実です。
あなたの身体の正解は、教科書の中にも、私の言葉の中にもありません。
今、その瞬間の、あなたの呼吸の中にだけあります。
どうぞ、その微細な声に耳を澄ませてみてください。
その時、ヨガは「習い事」ではなく、あなた自身の「生きる技法」へと変わっていくはずです。
ではまた。


