禅の世界には、「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」という言葉があります。「茶を飲むときは、ただ茶を飲み、飯を食うときは、ただ飯を食え」という意味です。この短い言葉の中に、心を静め、今この瞬間を十全に生きるための、深遠な叡智が凝縮されています。これは、私たちが目指すヨガ的な生き方の核心であり、前項で述べたシングルタスクを、さらに深く、実践的なレベルへと押し進めるための指針となります。
私たちの心は、ほとんどの時間、「今」にいません。皿を洗いながら、昨日の上司の言葉を反芻したり、明日のプレゼンのことを心配したりしています。身体は台所にありますが、心は過去や未来という、もはや存在しないか、まだ存在しない場所を彷徨っているのです。この心と身体の分離こそが、私たちのエネルギーを消耗させ、日々の営みから喜びや実感を奪い去る元凶です。
「今やっていることに100%の注意を向ける」とは、この分離した心と身体を、再び一つに統合するための実践です。それは、近年広く知られるようになった「マインドフルネス」の本質そのものと言えるでしょう。それは、何か特別なことをする必要はありません。あなたの日常の、ありふれた、時には退屈にさえ思える行為の一つ一つを、神聖な儀式の舞台へと変える試みなのです。
例えば、朝の歯磨き。あなたは普段、何を考えながら歯を磨いていますか? おそらく、今日のスケジュールや、昨夜見た夢のことでしょう。そうではなく、歯磨きという行為そのものに、全神経を集中させてみるのです。歯ブラシを持つ手の感触、毛先が歯や歯茎に触れる感覚、歯磨き粉のミントの香り、口の中に広がる泡の感触、そして水を吐き出す時の音。そこには、驚くほど豊かで微細な感覚の世界が広がっていることに気づくはずです。
あるいは、掃除の時間。掃除機をかけながら、そのモーター音の振動、床の上を滑るヘッドの動き、ホコリが吸い込まれていく様子に意識を向けます。雑巾で床を拭く時は、腕の筋肉の動き、水の冷たさ、そして拭き清められた床の輝きを、ただ感じます。
この実践は、行為の結果に対する執着から私たちを解放してくれます。これは、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』で説かれる「カルマヨガ(行為のヨガ)」の教えと深く響き合います。カルマヨガとは、行為の結果に期待したり、一喜一憂したりすることなく、ただ、行為そのものに身を捧げる生き方です。今やっていることに100%の注意を向ける時、私たちは自然と「うまくやろう」「早く終わらせよう」といった結果へのこだわりから自由になります。行為が、目的のための手段ではなく、それ自体が目的となるのです。その時、退屈な作業は、世界との交感の場、動く瞑想へと変容します。
引き寄せの観点から見ると、この実践は極めて重要です。なぜなら、私たちの創造の力、現実を形作る力は、過去や未来には存在せず、唯一「今、この瞬間」にのみ存在するからです。私たちが「今」から意識を逸らし、未来の欠乏(まだ手に入れていないもの)や過去の不足(満たされなかったこと)に心を奪われている時、私たちはその欠乏や不足の波動を宇宙に発信し続けていることになります。
しかし、「今、ここ」の行為に100%没入している時、そこに欠乏の入り込む隙間はありません。ただ、皿を洗うという行為の充足感、歯を磨くという行為のリアリティがあるだけです。その「今、満たされている」という感覚、その静かで力強い波動こそが、さらなる豊かさや調和を引き寄せる、最も確かな磁場となるのです。未来を創造するための最も効果的な方法は、未来を思うことではなく、今この瞬間を、全身全霊で生き切ることなのです。


