誰にでも経験があるはずです。怒りに我を忘れて声を荒げてしまったり、不安の渦に飲み込まれて身動きが取れなくなったり、悲しみの海に沈んで何も手につかなくなったり。そんな時、私たちは感情そのものと完全に一体化し、「私=怒り」「私=不安」という状態に陥っています。感情という名の嵐に翻弄される、一艘の小舟のように。しかし、ヨガの古代の叡智は、私たちに全く異なる可能性を示してくれます。それは、嵐を消し去ることではなく、嵐の真っ只中にありながら、すべてを静かに見つめる「嵐の目」のような中心に留まる技術です。それが、「観察者としての私」を育むという稽古です。
この思想の根幹は、ヨーガ哲学の最も重要な経典であるパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』に記されています。そこでは、私たちの本質は「プルシャ(観る者・純粋意識)」であり、私たちが経験する思考、感情、身体、そして外界の出来事はすべて「プラクリティ(観られるもの・物質世界)」であると説かれます。つまり、怒りや悲しみは「あなた」そのものではなく、「あなたに観られている」客体にすぎないのです。この、主客の分離を明確に認識することこそが、あらゆる苦しみから自由になるための第一歩となります。
では、「観察者」になるとは、具体的にどういうことでしょうか。それは、あなたの心の中で起こっていることを、まるで映画のスクリーンに映し出された映像のように眺める視点を持つことです。激しいアクションシーン(怒り)や、悲しいメロドラマ(悲しみ)が展開されても、あなたは観客席に座っているか、あるいはスクリーンそのものであり、映像によって傷つくことはありません。あるいは、空に浮かぶ雲に例えても良いでしょう。思考や感情は、次々と現れては形を変え、やがて消えていく雲です。しかし、あなたという「空」そのものは、雲がどんなに荒れ狂おうとも、常に変わらず、静かにそこに在り続けます。
この「観察者の視点」を育むための実践は、驚くほどシンプルです。強い感情が湧き上がってきたら、まずそれに気づき、心の中で「ああ、今、怒りのエネルギーが立ち上ってきたな」「胸のあたりに、悲しみという重たい感覚があるな」と、冷静に実況中継してみるのです。感情に「怒り」「悲しみ」といったラベルを貼る(ラベリングする)だけで、私たちはそれと同一化する状態から一歩距離を取ることができます。さらに、その感情が身体のどの部分で感じられているか(喉の詰まり、胃の収縮、肩の緊張など)を、好奇心をもって探求します。
この実践は、量子力学における「観察者効果」の概念とも不思議と共鳴します。観測するという行為そのものが、観測対象の状態に影響を与えるように、私たちが自らの感情をただジャッジせずに観察する時、その感情のエネルギーは自然と変容し、暴走が鎮まっていくのです。引き寄せの観点から言えば、ネガティブな感情の低い周波数に自分を同調させるのではなく、観察者という静かでニュートラルな中心点(ゼロポイントフィールドのようにも感じられます)に留まることで、私たちは望む現実を創造するための、穏やかでパワフルな「在り方」を維持することができます。
もちろん、これは一朝一夕に身につくものではありません。内田樹氏が語るように、これは「稽古」です。最初は感情に飲み込まれてしまい、嵐が過ぎ去った後で「ああ、またやってしまった」と気づくかもしれません。それでいいのです。その「気づき」こそが、観察者としてのあなたが目覚め始めた証拠です。何度も何度も、感情の波に気づき、距離を取り、観察する。その繰り返しが、あなたの内に、何ものにも揺るがされない静かな中心を育てていきます。
観察者としての自己を確立することは、人生の荒波から逃げることではありません。それは、どんな嵐の中にあっても、羅針盤の針が常に北を指し示すように、自分の中心へと還る術を身につけること。それこそが、ヨガが私たちに約束する、究極の自由と心の平安への道なのです。


