私たちの生命活動の中で、これほどまでに無意識的でありながら、同時に根源的な営みがあるでしょうか。生まれてから死ぬその瞬間まで、一日におよそ二万回以上も繰り返される呼吸。それは、当たり前すぎて普段は意識の地平線の下に沈んでいますが、ひとたび意識を向ければ、私たちの存在の最も深い層へと繋がる扉となります。
ヨガの世界において、呼吸は単なる酸素と二酸化炭素のガス交換という生理現象に留まりません。それは「プラーナ」という、宇宙に遍満する生命エネルギーを、自らの内に取り込み、制御し、そして高めていくための神聖な技術なのです。パタンジャリが編纂した「ヨーガ・スートラ」の八支則において、プラーナーヤーマは、アーサナ(坐法)によって身体という器を整えた後、プラティヤハーラ(感覚の制御)という、より内的な段階へと進むための、決定的に重要な橋渡しの役割を担っています。
アーサナが身体という「場」を耕す作業であるならば、プラーナーヤーマは、その場に生命の種子を蒔き、育むための実践です。それは、目に見える肉体から、より微細なエネルギーの領域へと私たちの意識をシフトさせ、やがては心そのものの働きを制御し、静寂の奥にある真我の光へと至るための、深遠なる旅路の始まりを告げるものなのです。
もくじ.
プラーナとは何か – 宇宙に遍満する生命の息吹
プラーナーヤーマを理解するためには、まずその核心である「プラーナ(prāṇa)」という概念を深く知る必要があります。プラーナという言葉は、サンスクリット語の接頭辞「プラ(pra- / 前へ、外へ)」と、動詞の語根「アン(an / 呼吸する、生きる)」が結びついたもので、「前に進む息吹」や「原初的な生命力」と訳すことができます。それは、単に空気を指すのではなく、あらゆる生命現象を成り立たせ、宇宙の万物を動かしている根源的なエネルギーそのものを意味します。
この思想の源流は、ヴェーダ時代にまで遡ります。ヴェーダの聖典において、プラーナはしばしば風の神ヴァーユと同一視され、生命を維持する根本的な力として讃えられていました。時代が下り、ウパニシャッドの哲人たちが内なる宇宙の探求を深める中で、プラーナの概念はさらに精緻化されていきます。彼らは、体内に取り込まれたプラーナが、機能に応じて五つの主要な流れ、すなわち「パンチャ・プラーナ(五つの風)」として働くことを見出しました。
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プラーナ:胸部に位置し、呼吸や心臓の働きを司り、エネルギーを取り込む力。
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アパーナ:下腹部に位置し、排泄や出産など、下方へ向かうエネルギーの流れを司る力。
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サマーナ:腹部に位置し、消化と吸収を司り、エネルギーを全身に均等に分配する力。
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ウダーナ:喉や頭部に位置し、発声や思考、そして死の瞬間に魂を肉体から引き離す、上方へ向かうエネルギーの流れを司る力。
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ヴィヤーナ:全身に浸透し、循環や神経系を司り、全身のエネルギーを統合する力。
このように、プラーナは私たちの身体のあらゆる生理機能の背後で働く、目に見えないダイナミズムです。そして重要なのは、このプラーナは私たちの身体の中だけに存在するのではなく、大気、太陽光、水、食物といった、宇宙のあらゆるものの中に遍満しているということです。プラーナーヤーマとは、この宇宙的な生命エネルギーを、呼吸という行為を通して意識的に、そして大量に体内に取り込み、その流れを浄化し、バランスを整えるための叡智なのです。
プラーナーヤーマの定義と目的 – 呼吸の拡張と静止
では、「プラーナーヤーマ(prāṇāyāma)」とは具体的に何を指すのでしょうか。この言葉は、「プラーナ」と「アーヤーマ(āyāma / 拡張、延長、制御)」という二つの語から成り立っています。つまり、文字通りには「生命エネルギーの拡張と制御」を意味します。呼吸を長く、深く、そして意識的に行うことで、プラーナの流れを意のままに操る技術、それがプラーナーヤーマです。
「ヨーガ・スートラ」において、パタンジャリはプラーナーヤーマを次のように定義しています。
tasmin sati śvāsa-praśvāsayor gati-vicchedaḥ prāṇāyāmaḥ
(アーサナが)確立された上で、吸う息と吐く息の動きを断ち切ること、それがプラーナーヤーマである。(2章49節)
ここで注目すべきは、「ガティ・ヴィッチェーダ(gati-vicchedaḥ)」、すなわち「動きを断ち切る」という表現です。これは、単に呼吸を長くすること以上に、呼吸を「止める」こと、すなわち「クンバカ(kumbhaka / 止息)」の重要性を示唆しています。呼吸には、吸う息(プーラカ)、吐く息(レーチャカ)、そして息を止めるクンバカの三つの局面があります。プラーナーヤーマの実践とは、この三者を意図的にコントロールし、特にクンバカの時間を安全に延長していくプロセスなのです。
なぜ、息を止めることがそれほど重要なのでしょうか。古代のヨーガ行者たちは、呼吸の動きと心の動きが密接に連動していることを発見しました。心が乱れている時、呼吸は浅く速くなります。心が穏やかな時、呼吸は深くゆっくりとなります。そして、呼吸が完全に静止した時、心の働きもまた静止するのです。ハタヨガの重要な経典である「ハタヨガ・プラディーピカー」には、「風(呼吸)が動けば心も動き、風が動かねば心も動かない」と明確に記されています。
したがって、プラーナーヤーマの目的は、呼吸を制御することを通して、絶え間なく揺れ動く心の波を鎮め、その奥にある静寂なる意識の湖底を覗き込むことにあるのです。
エネルギーの通り道 – ナーディーとチャクラ
プラーナは、私たちの身体の中を目に見えないエネルギーの通り道である「ナーディー(nāḍī)」を通って流れています。ナーディーは、血管や神経系のように物理的に存在するものではなく、プラーナが流れる微細な経路であり、その数は実に72,000本にも及ぶと言われています。
この無数のナーディーの中で、特に重要なのが三本の主要なナーディーです。
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イダー・ナーディー(iḍā-nāḍī):背骨の左側を通り、左の鼻孔に繋がっています。月のエネルギーを象徴し、冷静さ、受容性、精神性といった陰性の性質を持ちます。自律神経系で言えば、リラックスを司る副交感神経に対応します。
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ピンガラ・ナーディー(piṅgalā-nāḍī):背骨の右側を通り、右の鼻孔に繋がっています。太陽のエネルギーを象徴し、情熱、活動性、論理性といった陽性の性質を持ちます。活動を司る交感神経に対応します。
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スシュムナー・ナーディー(suṣumnā-nāḍī):背骨の中心を貫く、最も重要なナーディーです。通常は休眠状態にありますが、イダーとピンガラのエネルギーが完全に浄化され、バランスが取れた時に、根源的な生命エネルギーである「クンダリニー」がこのスシュムナーを上昇し、覚醒(悟り)へと至るとされています。
私たちの日常的な活動において、イダーとピンガラのエネルギーは常に優位性を交代しながら流れています。しかし、ストレスや不規則な生活によって、このバランスは容易に崩れてしまいます。プラーナーヤーマの重要な目的の一つは、この二つのナーディーの流れを浄化し、調和させることで、心身のバランスを取り戻し、中央の管であるスシュムナーを目覚めさせる準備をすることなのです。
そして、これらのナーディーが集中し、交差するエネルギーの渦の中心点が「チャクラ(cakra / 車輪)」です。プラーナーヤーマによってプラーナの流れが活性化されると、各チャクラもまた浄化され、その本来の機能を発揮し始めます。
代表的なプラーナーヤーマの技法
プラーナーヤーマには数多くの技法が存在しますが、ここでは代表的なものをいくつか紹介します。ただし、これらの実践、特にクンバカを伴うものは、身体と心に強力な影響を及ぼすため、必ず資格のある指導者の下で、段階的に学ぶことが不可欠であることを、ここに強く明記しておきます。
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ウジャイ呼吸(Ujjāyī Prāṇāyāma / 勝利の呼吸)
喉の奥(声門)をわずかに収縮させ、「シュー」という摩擦音を立てながら行う呼吸法です。この穏やかな音は、意識を呼吸に集中させるためのアンカー(錨)となります。身体を内側から温め、心を落ち着かせる効果があり、アーサナの実践中にもよく用いられます。現代科学の視点からは、迷走神経を穏やかに刺激し、副交感神経を優位にすることで、深いリラクゼーション効果をもたらすと考えられています。 -
カパラバティ(Kapālabhāti / 頭蓋を輝かせる呼吸)
腹筋を使って力強く息を「フッ、フッ」と能動的に吐き出し、吸気は自然に任せる呼吸法です。これは厳密にはシャットカルマ(六つの浄化法)の一つに分類されますが、プラーナーヤーマの準備として行われます。「頭蓋を輝かせる」という名の通り、脳を活性化させ、思考を明晰にし、身体の毒素を排出する効果があります。ただし、エネルギーを高める作用が強いため、高血圧の方や心臓に疾患のある方、妊娠中の方は避けるべきです。 -
ナーディー・ショーダナ(Nāḍī Śodhana Prāṇāyāma / 気道浄化の呼吸法)
片鼻交互呼吸法とも呼ばれ、プラーナーヤーマの王道とも言える技法です。右手の人差し指と中指を眉間に置き、親指で右の鼻孔を、薬指で左の鼻孔を交互に押さえながら呼吸を行います。左から吸い、右から吐く。右から吸い、左から吐く。これを一サイクルとして繰り返します。この実践は、イダーとピンガラという二つの主要なナーディーの流れを直接的に浄化し、バランスを整えます。その結果、自律神経系が調和し、心は深い静けさと安定を得ることができます。瞑想の前にこの呼吸法を行うと、驚くほどスムーズに内なる静寂へと入っていけるでしょう。 -
クンバカ(Kumbhaka / 止息)
前述の通り、クンバカはプラーナーヤーマの核心です。吸った後に息を止める「アンタラ・クンバカ」と、吐いた後に息を止める「バーヒャ・クンバカ」があります。息を止めている間、プラーナは体内に蓄積され、そのエネルギーは細胞レベルでの再生と浄化を促します。さらに重要なのは、呼吸の静止が思考の静止をもたらすことです。この無呼吸・無思考の静寂の中で、ヨーギーは日常的な意識を超えた、純粋な存在の感覚を垣間見るのです。しかし、クンバカは非常にパワフルな実践であり、不適切な練習は身体に深刻な害を及ぼす可能性があります。必ず熟練した指導者の下で、安全なガイドラインに従って行う必要があります。
プラーナーヤーマがもたらすもの – 意識の変容
プラーナーヤーマの実践が深まっていくと、ヨーギーにはどのような変容がもたらされるのでしょうか。パタンジャリは、その効果を次のように簡潔に、しかし力強く述べています。
tataḥ kṣīyate prakāśa-āvaraṇam
それ(プラーナーヤーマ)によって、光を覆い隠しているヴェールが破壊される。(2章52節)
ここでいう「光」とは、私たちの本質である純粋な意識、プルシャのことです。そして「ヴェール」とは、私たちの過去の行為(カルマ)によって生み出された、無知や潜在的な印象(サンスカーラ)のことです。プラーナーヤーマは、プラーナの浄化を通して、この光を覆い隠しているカルマのヴェールを一枚一枚剥がしていく力を持っているのです。
この浄化のプロセスが進むと、ヨーギーは次の段階であるプラティヤハーラ(感覚の制御)へと自然に導かれます。通常、私たちの五感は常に外側の対象へと向かい、エネルギーを浪費しています。しかし、プラーナーヤーマによってプラーナの流れが内向きになると、感覚器官もまたその追随をやめ、意識は内なる世界へと引き戻されます。
こうしてプラーナーヤーマは、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、そしてサマーディ(三昧)という、ヨーガのより内的な旅の扉を開くための、不可欠な鍵となるのです。
現代社会におけるプラーナーヤーマの意義
ストレス、情報過多、そして絶え間ない変化。現代社会を生きる私たちは、無意識のうちに交感神経が過剰に働き、呼吸は浅く、速くなりがちです。この慢性的な「過呼吸」状態が、不安や疲労、さまざまな心身の不調の一因となっていることは、もはや疑いようがありません。
プラーナーヤーマは、この無意識の呼吸パターンを断ち切り、意識的に深く、穏やかな呼吸を取り戻すための、古代から伝わる極めて効果的な処方箋です。その効果は、自律神経のバランス調整、ストレスホルモンであるコルチゾールの減少、心拍変動の改善など、現代科学の言葉でも次々と証明されつつあります。
縁側の椅子に腰掛け、頬を撫でる風を感じながら、あるいは都会の喧騒の中のわずかな休息時間に、数分間でもナーディー・ショーダナを行ってみてください。それだけで、荒れ狂う思考の嵐は静まり、心に穏やかな湖面が広がるのを感じられるはずです。
しかし、私たちは忘れてはなりません。プラーナーヤーマは、単なるリラクゼーション法や健康法に留まるものではないことを。その究極の目的は、呼吸という最も身近なツールを通して、私たち自身の生命エネルギーをマスターし、自己の本質を探求し、そして個という小さな存在が宇宙という大いなる生命と分かちがたく結ばれていることを、全身全霊で体感することにあります。
呼吸は、身体と心、物質と精神、そしてあなたという個人と宇宙全体を繋ぐ、神秘的な架け橋です。この古代の叡智は、混迷の時代を生きる私たちにとって、自分自身の内なる宇宙へと帰る道筋を照らし出す、力強くも優しい招待状なのです。その招待を受け取るかどうかは、あなたの一呼吸にかかっています。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


