私たちの旅は今、ヴェーダの広大な世界から、より実践的な内なる道へと分け入っていきます。神々への賛歌や壮大な宇宙論、そして「汝はそれである」と喝破したウパニシャッドの深遠な哲理。それらの叡智は、私たちの知性を刺激し、存在の根源へと眼差しを向けさせてくれました。しかし、古代の賢者たちは知っていました。真の理解は、単なる知識の集積によってではなく、身体と心を通した直接的な体験、すなわち「実践」によってはじめて血肉となるのだ、と。
その実践の道を、最も体系的かつ普遍的な形で後世に遺してくれたのが、聖者パタンジャリが編纂したとされる『ヨーガ・スートラ』です。この経典は、ヨガを単なる健康法や身体技法としてではなく、「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(citta-vṛtti-nirodhaḥ)」、すなわち「心の作用の止滅」を目指すための、精緻な哲学的システムとして提示しています。
その核心にあるのが「アシュターンガ・ヨーガ(aṣṭāṅga-yoga)」、すなわち「ヨーガの八支則」です。アシュタは「八」、アンガは「手足」や「部門」「構成要素」を意味します。これは、解脱(モークシャ)という山の頂を目指すために用意された、八つの段階からなる登山道のようなもの、と考えることができるでしょう。しかし、それは単純な直線的なステップではありません。むしろ、互いに深く関連し、影響を与え合いながら螺旋状に高まっていく、一つの有機的なシステムなのです。それは、根を張り、幹を伸ばし、枝葉を茂らせ、花を咲かせ、やがて実を結ぶ一本の大きな樹木にも似ています。
さあ、この古代の叡智が示す地図を手に、私たちの内なる宇宙を探求する旅を、一歩ずつ、丁寧に歩み始めていきましょう。
もくじ.
第一支・第二支:大地に根を張る – ヤマとニヤマという倫理的土台
ヨーガの旅は、決してマットの上だけで完結するものではありません。その始まりは、私たちの日常生活の中に、他者や社会、そして自分自身とどう向き合うか、という極めて実践的な問いかけの中にあります。ヤマ(Yama)とニヤマ(Niyama)は、この旅の土台となる倫理的な礎です。どんなに立派な建物を建てようとしても、軟弱な土地に基礎工事を疎かにすれば、すぐに傾き、崩れ去ってしまうでしょう。同様に、この倫理的な土台なくして、アーサナや瞑想の修練は真の深まりを見せることはありません。
ヤマ(Yama):禁戒 – 社会と調和し、世界との関係を整える
ヤマは、私たちが他者や社会との関わりの中で「してはならないこと」を定めた五つの禁戒です。それは、他者への配慮であり、世界に対する責任ある態度を養うための訓練です。
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アヒンサー(Ahiṃsā / 非暴力・不殺生)
最も重要とされるヤマです。単に身体的な暴力を振るわない、というレベルに留まりません。他者を傷つける言葉、軽蔑的な眼差し、心の中で抱く憎しみや悪意もまた、微細なレベルの「ヒンサー(暴力)」なのです。現代社会に置き換えれば、SNS上での匿名の誹謗中傷はもちろん、ゴシップに興じることや、他者の失敗を喜ぶ心も含まれるでしょう。さらに、この非暴力の刃は自分自身にも向けられます。「どうして自分はダメなんだ」と自己を責め続けることもまた、深刻な自己への暴力です。アヒンサーの実践とは、あらゆる生命存在に対する、深い慈愛と共感の念を育むことに他なりません。 -
サティヤ(Satya / 正直・誠実)
真実を語り、思考と言動を一致させることです。嘘をつかない、というだけでなく、心にもないお世辞を言ったり、事実を誇張したり、あるいは都合の悪い事実を隠したりすることも、サティヤの精神から外れます。しかし、パタンジャリの教えは決して硬直的ではありません。もし真実を語ることが、誰かを深く傷つける(アヒンサーに反する)のであれば、沈黙を選ぶ叡智もまたサティヤの一部です。それは、真実の探求というよりも、誠実なあり方を涵養するプロセスなのです。 -
アステーヤ(Asteya / 不盗)
他人の所有物を盗まない、ということです。これもまた、物質的なものに限りません。他人の時間やアイデア、功績を盗むこと。あるいは、相手の信頼を裏切る行為もまたアステーヤに反します。誰かがあなたに寄せてくれた期待や信頼を、自分の都合のために利用することは、最もたちの悪い盗みの一つかもしれません。アステーヤは、他者の権利と存在そのものを尊重する心を育てます。 -
ブラフマチャリヤ(Brahmacarya / 禁欲・エネルギーの制御)
しばしば「性的な禁欲」と訳され、現代人にとっては実践が難しいものと感じられがちです。しかし、その本質は、生命エネルギー(プラーナ)の浪費を防ぎ、それをより高次の目的、すなわち精神的な成長へと振り向けることにあります。感覚的な快楽、例えば過食や過度な娯楽、情報への耽溺などに際限なくエネルギーを注ぎ込むのではなく、自らのエネルギーを意識的に管理し、保持すること。それがブラフマチャリヤの現代的な解釈と言えるでしょう。 -
アパリグラハ(Aparigraha / 不貪・非所有)
必要以上に所有しない、貪らないことです。私たちは物質的な豊かさを追い求めがちですが、所有物は時に、私たちを束縛し、心を悩ませる原因となります。アパリグラハは、物への執着を手放し、精神的な自由と軽やかさを得るための教えです。それは現代のミニマリズムの思想とも深く通底します。自分にとって本当に必要なものは何かを見極め、過剰な欲望から自由になること。それによって初めて、内なる豊かさに気づくことができるのです。
ニヤマ(Niyama):勧戒 – 内なる自己を耕し、育む
ヤマが外向きの行動規範であったのに対し、ニヤマは自己の内面に向き合い、「積極的に実践すべきこと」を定めた五つの勧戒です。自己を浄化し、精神的な強さを養うための内的な訓練です。
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シャウチャ(Śauca / 清浄)
身体的な清浄と、精神的な清浄の両方を意味します。身体的な清浄とは、入浴や清潔な衣服、そして身体にとって良い食事を摂ることなどです。一方、精神的な清浄とは、心の中の不純物、すなわち嫉妬、怒り、貪欲、傲慢といったネガティブな感情を洗い流すことです。身体と心は不可分です。身体が清らかであれば心も澄み渡り、心が清らかであれば身体も健やかになります。 -
サントーシャ(Santoṣa / 知足)
「足るを知る」ことです。私たちは常に「ないもの」に目を向け、他者と比較し、不足感を抱きがちです。サントーシャは、今ここにあるもの、与えられているものに目を向け、感謝し、満足する心のあり方です。それは現状維持や諦めとは全く異なります。むしろ、内なる満足感という揺るぎない土台があるからこそ、私たちは心穏やかに、必要な努力を続けることができるのです。 -
タパス(Tapas / 苦行・鍛錬・熱意)
文字通りには「熱」を意味し、自己を鍛錬するための熱意や努力を指します。それは、自らを快適な領域(コンフォートゾーン)から一歩踏み出させる力です。早朝に起きて瞑想すること、苦手なアーサナに挑戦すること、困難な課題から逃げずに取り組むこと。こうした実践を通して、私たちの意志力は鍛えられ、心身の不純物は焼き尽くされていきます。ただし、タパスは自虐的な苦行ではありません。それは、自己成長への燃えるような情熱なのです。 -
スヴァーディヤーヤ(Svādhyāya / 読誦・自己探求)
聖典を学び、マントラを唱えること(読誦)、そして、それを通して「自己とは何か」を探求することです。ヴェーダやウパニシャッド、そしてこの『ヨーガ・スートラ』のような賢者の言葉に触れることは、我々の視野を広げ、内省を促します。また、自分自身の思考パターンや感情の動きを客観的に観察することも、重要なスヴァーディヤーヤです。それは、自分という書物を、注意深く読み解いていく作業に他なりません。 -
イーシュヴァラ・プラニダーナ(Īśvara-praṇidhāna / 自在神への祈念・献身)
イーシュヴァラとは、特定の宗教の神を指すのではなく、宇宙の根源的な叡智や、自己を超えた大いなる存在を象徴します。その大いなる存在に、自らの行為とその結果をすべて委ね、献身することです。これは、自分の力だけで何かを成し遂げようとするエゴ(自我)を手放す訓練です。「私がやる」のではなく、「私を通してなされる」という境地へ。この明け渡しによって、私たちは結果への執着から解放され、深い安らぎと信頼感を得ることができるのです。
第三支・第四支・第五支:身体と感覚という乗り物を調教する
ヤマ・ニヤマという倫理的な土台が固まったら、次はいよいよ身体と感覚という、私たちがこの世界を体験するための乗り物を整えていきます。暴れ馬のような身体と、あちこちへと散乱する感覚を乗りこなせなければ、心の深淵へと旅することはできません。
アーサナ(Āsana):坐法・姿勢 – 安定して快適な器を創る
『ヨーガ・スートラ』におけるアーサナの定義は、驚くほどシンプルです。「スティラ・スカム・アーサナム(sthira-sukham-āsanam)」、すなわち「アーサナとは、安定していて、快適なものでなければならない」。現代のヨガスタジオで行われる無数のダイナミックなポーズ(ヴィンヤサ)とは、少し趣が異なります。本来、アーサナは、その後のプラーナーヤーマや瞑想のために、長時間、不動の姿勢で座り続けるための身体的な準備だったのです。
しかし、これは現代のハタヨガで行われるアーサナが無意味だということではありません。むしろ、多様なアーサナの実践は、この「安定と快適さ」という究極の目標に至るための、極めて有効な手段となります。アーサナを通して、私たちは凝り固まった筋肉をほぐし、歪んだ骨格を整え、身体の隅々にまで意識を行き渡らせる訓練をします。
そして何より重要なのは、アーサナの実践が、二元性を超えるための稽古であるという点です。ポーズを保つ中での緊張と弛緩、努力と手放し、苦痛と快適さ。その両極の間でバランスをとることを学びます。身体というミクロコスモス(小宇宙)を観察し、制御する経験を通して、私たちはやがてマクロコスモス(大宇宙)である心の働きを制御するための準備を整えていくのです。
プラーナーヤーマ(Prāṇāyāma):調気法・呼吸の制御 – 生命エネルギーの流れを整える
アーサナによって身体という器が整うと、次はその器の中を流れる生命エネルギー、すなわち「プラーナ(prāṇa)」に働きかけます。プラーナーヤーマは、プラーナ(生命エネルギー)とアーヤーマ(āyāma / 制御、拡張、休止)という二つの言葉から成ります。
私たちの呼吸と心は、密接に連動しています。興奮すれば呼吸は速く浅くなり、リラックスすれば呼吸は深く穏やかになります。この関係性を逆手に取り、意識的に呼吸を制御することで、心の波を鎮めることができるというのが、プラーナーヤーマの基本的な考え方です。吸う息(プーラカ)、吐く息(レーチャカ)、そして息を止めること(クンバカ)を様々に組み合わせ、その長さや速さ、比率をコントロールします。
しかし、プラーナーヤーマは単なる呼吸エクササイズではありません。それは、目には見えない微細な生命エネルギーであるプラーナの流れを意識し、体内に無数に張り巡らされたエネルギーの通り道であるナーディー(nāḍī)を浄化し、その流れを調和させるための高度な技法です。乱れたエネルギーの流れが整うとき、心は自然と静寂へと向かいます。
プラティヤハーラ(Pratyāhāra):制感・感覚の制御 – 意識を内側へ引き込む
私たちの心は、常に五つの感覚器官(眼、耳、鼻、舌、皮膚)を通して、外側の世界からの刺激に晒されています。美しい景色、心地よい音楽、美味しそうな匂い…。感覚は絶えず心を外側へと引っ張り出し、散漫にさせます。プラティヤハーラは、この外向きの感覚の働きを意識的に遮断し、内側へと引き込む訓練です。
経典ではしばしば、亀が危険を察知したときに手足や頭を甲羅の中にスッと引き込める様子に喩えられます。それと同じように、感覚器官が機能していても、その刺激に心を奪われることなく、意識を内なる世界に留めるのです。
情報過多の現代社会において、このプラティヤハーラの実践は極めて重要です。スマートフォンから絶え間なく流れ込む通知、テレビや広告の洪水。私たちは意識を外側へ奪われ続け、疲弊しています。意識的にデジタルデバイスから離れる「デジタルデトックス」もまた、現代的なプラティヤハーラの一形態と言えるでしょう。この感覚の制御が成功して初めて、私たちは心のより深い層へと進む準備が整うのです。
第六支・第七支・第八支:心の深淵へ – 意識の統合と超越
いよいよ、ヨーガの旅は核心部へと入っていきます。ヤマ・ニヤマで土台を築き、アーサナとプラーナーヤーマで身体とエネルギーを整え、プラティヤハーラで感覚を内側へ引き込んだ先に待っているのが、純粋な心の働きそのものと向き合う、内的なヨーガ(アンタランガ・ヨーガ)です。ダーラナー、ディヤーナ、サマーディの三つは、一つの連続したプロセスであり、これらを合わせて「サンヤマ(Saṃyama / 総制)」と呼びます。
ダーラナー(Dhāraṇā):集中・凝念
ダーラナーとは、心を一つの対象に意図的に結びつけ、そこに留め置くことです。プラティヤハーラによって外の世界から引き返した意識を、今度は内なる一点に集中させます。その対象は、マントラの響き、特定のチャクラ、心臓の鼓動、神の姿のイメージなど、何でも構いません。
この段階では、まだ努力が必要です。ロウソクの炎のように、意識は風に吹かれて揺らぎ、すぐに別の思考へと逸れていきます。そのたびに、「ああ、逸れたな」と気づき、また優しく、根気強く意識を対象に戻す。この繰り返しがダーラナーの訓練です。それは、心の筋力トレーニングのようなものです。
ディヤーナ(Dhyāna):瞑想・静慮
ダーラナーの訓練が深まり、集中が途切れなくなると、ディヤーナの段階へと移行します。これは、対象への意識の流れが、努力なくして、途切れることなく継続している状態です。経典では、器から器へと油を注ぐときのような、途切れることのない流れに喩えられます。
ダーラナーにあった「集中しよう」という努力の感覚は消え去り、意識は自然に、そして穏やかに対象と一体化していきます。瞑想している「私」と、瞑想されている「対象」との境界線が、次第に溶け始めていくのです。ここには深い静けさと、満ち足りた喜びがあります。禅で言う「禅定」も、このディヤーナに近い境地と言えるでしょう。
サマーディ(Samādhi):三昧・等持
ディヤーナが極致に達したとき、サマーディが訪れます。これは、ヨーガの八支則の最終到達点です。この境地では、瞑想している主体(私)、瞑想の対象、そして瞑想するという行為、その三つの区別が完全に消え去ります。主観と客観は完全に融合し、残るのは対象そのものの輝きだけです。
塩の人形が海に入って溶けてしまい、海そのものになるように、個我(アートマン)は宇宙意識(ブラフマン)と完全に一つになります。これこそが、ウパニシャッドが説いた「梵我一如」の直接体験です。パタンジャリが『ヨーガ・スートラ』の冒頭で定義した「心の作用の止滅」が、ここに成就するのです。
結論として:八支則という、生きた智慧
こうして概観してきたヨーガの八支則は、古代のインドで生まれた、単なる宗教的な修行法ではありません。それは、人間という存在を、その肉体、エネルギー、心、そして社会との関係性まで含めて深く洞察し、より調和の取れた、自由で、豊かな生へと導くための、驚くほど精緻で普遍的なシステムです。
ヤマ・ニヤマという根がなければ、アーサナという幹は安定しません。アーサナという幹がなければ、プラーナーヤーマという枝葉はエネルギーを得られません。そして、その全てが整って初めて、瞑想という花が咲き、サマーディという果実が実るのです。これら八つの部門は、バラバラに存在するのではなく、全てが連動し、互いを支え合う一つの生命体なのです。
この八支則という地図は、私たち現代人が抱える多くの問題―ストレス、人間関係の悩み、自己肯定感の低さ、そして人生の意味への問い―に対する、深い示唆を与えてくれます。マットの上での一時間だけでなく、日々の暮らしのすべてがヨーガの実践の場となり得ること。そして、その道を一歩一歩、誠実に歩むこと自体が、私たちの人生を根底から変容させる力を持っていること。
この古代の叡智の光が、あなたの探求の旅を、明るく、そして温かく照らし出すことを心から願っています。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


