前項で探求したイーシュワラ・プラニダーナの哲学が、観念的な理解から、生きた実感、すなわち「体感」へと深まるとき、私たちはある不思議な境地に至ります。それは、「私」という行為者がどこかへ消え去り、まるで自分がより大きな力の「媒体(チャネル)」や「通り道」になったかのような感覚です。この「『私』がやっているのではない、『私』を通して為されている」という感覚こそ、ヨガや武道、芸術や学問など、あらゆる「道」を究めようとする者が、その深奥で出会う、共通の体験なのです。
この境地を、現代心理学の言葉で説明するならば、ミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー状態」や、アスリートたちが語る「ゾーン」が最も近いでしょう。フロー状態にあるとき、私たちの自己意識は希薄になります。「うまくやろう」「失敗したらどうしよう」といったエゴの声は消え去り、行為とその主体である意識が完全に一体化します。時間の感覚は歪み、普段では考えられないほどの高い集中力とパフォーマンスが、何の努力感もなく、自然に、そして完璧に発揮されるのです。
偉大な音楽家が「曲が自分を通して降りてきた」と語り、熟練の職人が「手が勝手に動いた」と述懐するとき、彼らはこの「私を超えた力」の存在を証言しています。それは、個人の能力や才能という言葉だけでは説明しきれない、大いなる流れとの合一の体験です。
この境地は、東洋思想の核心にも深く根差しています。『般若心経』が説く「空(くう)」の哲学や、老荘思想が語る「無為自然」の思想は、まさにこのことを指し示しています。自分という器を、「私」という思い込みや執着、自己意識でいっぱいにしている限り、そこに宇宙の叡智やエネルギー(道(タオ))が流れ込む余地はありません。しかし、瞑想や修行を通して、この「私」という固い殻を溶かし、自分自身を「空っぽ」にすることができたとき、初めて、私たちは宇宙の創造的な力の、純粋な導管となることができるのです。
では、どうすれば、この凡人には縁遠いと思えるような境地に、少しでも近づくことができるのでしょうか。逆説的ですが、その道は、徹底的な「稽古」、すなわちタパスの実践から始まります。日本の芸道における「守破離」の教えが示すように、まず私たちは、師の教えや基本の「型」を、徹底的に反復練習し、身体に染み込ませる必要があります(守)。この地道な努力の果てに、技術は無意識のレベルにまで落とし込まれ、私たちは型を意識せずとも、自然に動けるようになります。そして、その型を土台として、自分なりの応用が生まれ(破)、最終的には型そのものから自由になり、完全に自然な境地に至るのです(離)。「私」を消すためには、まず「私」が全力を尽くして稽古に励むという、このパラドックスが重要なのです。
そして、その徹底的な稽古の上に、イーシュワラ・プラニダーナ、すなわち「手放し」の実践が重なります。自分が積み上げてきた技術や、その成果、他者からの評価といったものへの執着を、意識的に手放す。「うまくやろう」という力みがふっと抜けた瞬間にこそ、最高のパフォーマンスは生まれます。
引き寄せの法則においても、このシフトは決定的な意味を持ちます。「私が、この手で、豊かさを掴み取ってやる」というエゴイスティックな力みは、しばしば緊張と抵抗を生みます。そうではなく、「私という存在を通して、宇宙の無限の豊かさが、この世界に表現されることを、私は許可します」というスタンスに切り替えてみるのです。
あなたは、豊かさを「生み出す」源泉ではなく、豊かさを「受け取り、表現する」ためのアンテナであり、器です。あなたの仕事は、アンテナをきれいに磨き(シャウチャ)、宇宙の豊かさの周波数にチャンネルを合わせ(サントーシャ)、あとはただ、流れに身を任せること。
このとき、引き寄せのプロセスは、苦しい「努力」のゲームから、喜びに満ちた「共同創造」のダンスへと、その質を根本的に変容させます。
「私がやる」という、分離したエゴの小さな物語から、「私を通して為される」という、全体性と繋がった大きな物語へ。これは、ヨガが私たちを導こうとしている、究極の自己変容の旅路です。あなたは、孤独な戦士ではなく、宇宙という壮大なオーケストラの一員なのです。あなたの小さなエゴという楽譜から顔を上げ、全体のハーモニーに耳を澄まし、大いなる指揮者(イーシュワラ)にその身を委ねたとき、あなたの人生からは、あなた自身も聴いたことのない、最も神聖で美しいメロディーが、自然に奏でられ始めるでしょう。


