あなたはいま、どんな風に過ごしているんでしょうか。
何を考えていますか?
窓の外を眺めているかもしれないし、スマホの画面に眉をひそめているかもしれない。あるいは、温かいお茶の湯気にほっとしているかもしれませんね。
私たち一人一人は、ものすごく違う「世界」を生きています。
味わっている感情も違うし、見えている景色への解釈もまったく違う。
もし、隣に座っている人の心の中を完全に覗くことができたら、あまりの違いに驚愕するかもしれません。
それぞれが創造した独自の宇宙を見たいような、見たくないような。興味津々ですが、ちょっと怖い気もしますね。
でも、「私たちはまったく違う世界に生きている」という事実を心の底から受け入れると、相手に対する見え方が劇的に変わってきます。
正しさの正体は、世界観の衝突
たいていの場合、人は自分が生きているこの世界を「客観的で唯一の真実の世界」だと思い込んでいます。
だから、相手の言動も「私の世界」のルールに照らし合わせて解釈し、判断します。
「普通はこうするでしょう?」「常識で考えればわかるはずだ」と。
しかし、相手は相手で、あなたとは物理法則さえ違うかもしれない、まったく別の「主観的な世界」を生きているのです。
それぞれが見ている現実は、それぞれの「見方(フィルター)」によって決定されたものです。
起きた物理現象はたった一つでも、人の数だけそのことへの解釈とストーリーが作られ、それがそれぞれの人生という物語に加えられていきます。
かつて世間を騒がせた大きな家具屋さんのお家騒動を覚えているでしょうか。父と娘の対立。
あれも、それぞれの立場から見れば、どちらも完璧に「正しい」のです。
父には父の正義があり、娘には娘の正義がある。
ところが相手も同じように「自分が正しい」と信じているので、そこに対立が生まれます。
人間同士の争いのほとんどは、「どちらが客観的に正しいか」という真実の探求ではありません。
お互いが持っている「それぞれの世界」と「それぞれの世界」の領土争いです。
「私の作った世界観を認めろ」「いや、俺の世界観の方が優先されるべきだ」という、幻想同士のぶつかり合い。
これが、私たちの人生で頻繁に起きている摩擦の正体です。
人生という物語は、すべて編集されたフィクション
さて、こうなってくると、少し衝撃的な結論に至ります。
私たちが語る身の上話や、涙ながらの思い出話、苦労話、成功体験。
これらは全部、その人の「思い込み」が編集して作り上げた、架空のストーリーだってことになります。
実は、その通りなのです。
我々が後生大事に抱えている「私の人生」という物語も、実際は思い込みというフィルターを通して選別された記憶の断片を、都合よく繋ぎ合わせているだけで、そこに確固たる実体はありません。
同じ出来事を経験しても、Aさんは「最悪の日だった」と記憶し、Bさんは「学びの多い日だった」と記憶する。
事実は一つでも、物語は無限です。
しかも、その思い込みの物語は、未来まで侵食してきます。
「私はこういう過去を持った人間だから、未来もきっとこうなるだろう」と予想します。
その未来はたいていの場合、その人の過去の物語の延長線上で描かれた予測に過ぎません。
ですから、ヨガや非二元の教えでは、過去も未来も「その人の幻想(マーヤ)」だと言うのです。
映画のフィルムのように、実体があるように見えて、光が消えれば何も残らない幻影だと。
残ったもの、それだけが実在している
過去という物語を燃やし、未来という予測を手放し、自分という思い込みのフィルターさえも外してしまったとき。
そこに何が残るでしょうか?
すべてはマーヤ(幻影)です。
そして、すべてが消え去った後に残ったもの、それだけが「実在」しています。
古今の賢者たちは、その実在を様々な言葉で指し示してきました。
「これ」だの、「ここ」だの、「それ」だの。
ある人はそれを「愛」と呼び、ある人は「ホーム」と呼び、ある人は「悟り」と呼びました。
言葉は何でもいいのです。
それは、思考が作り出した物語ではない、いま、目の前に広がっている「永遠である全体」のことです。
鳥の声、風の感触、胸の鼓動、ただ在るという感覚。
解釈も判断も必要ない、生の現実そのもの。
物語の主人公を降りて、ただの「これ」として寛ぐとき、世界同士の争いは消え去ります。
そこには勝ち負けも、正しい間違いもなく、ただ静かな平和があるだけです。
さあ、今日も思い込みの物語から少し距離を置いて、この「いま・ここ」という実在を味わってみませんか。
今日もいい日でありますように。


