ヨガや瞑想を続けていると、ふとした瞬間に陥る「落とし穴」があります。
それは、初心者の頃には見えにくく、ある程度熱心に学び、知識を得て、実践を積み重ねてきた人ほどハマりやすい、非常に巧妙な罠です。
その罠の名前を、「スピリチュアル・マテリアリズム(精神的物質主義)」といいます。
これは、チベット仏教の指導者チョギャム・トゥルンパが提唱した概念ですが、現代のヨガやマインドフルネスブームの中で、より一層その深刻さを増しているように感じます。
今日は、この少し耳の痛い、しかし避けては通れないテーマについて、縁側でお茶でも飲みながら、静かに考えてみたいと思います。
エゴを着飾るための「精神性」
私たちは普段、物質的な豊かさを求めて生きています。
良い服、良い車、広い家、最新のガジェット。
これらを手に入れることで「自分は価値がある人間だ」「私は幸せだ」と感じようとします。
しかし、ある時ふと「物質だけでは満たされない」と気づき、精神世界やヨガの扉を叩きます。
ここまでは素晴らしいプロセスです。
問題はここからです。
物質を手放したはずの手で、今度は「精神的なトロフィー」をかき集め始めてしまうのです。
「私は毎朝瞑想をしている(から、していない人より優れている)」
「私はヨガの哲学を知っている(から、無知な人たちとは違う)」
「私はオーガニックなものしか食べない(から、身体が清らかだ)」
「私は悟りに近づいている(という特別な存在だ)」
お気づきでしょうか。
対象が「ブランドバッグ」から「瞑想の経験」や「高尚な知識」に変わっただけで、「何かを獲得することで、自分(エゴ)を強化しようとする構造」は全く変わっていないのです。
これを、スピリチュアル・マテリアリズムと呼びます。
精神性を追求しているようでいて、実は「私というエゴ」を、精神的な装飾品で着飾っているに過ぎない状態のことです。
精神的物質主義の3つのレベル
トゥルンパ師は、この物質主義には3つのレベルがあると説きました。現代風に翻訳してみましょう。
1. 物理的な物質主義(Physical Materialism)
これは分かりやすい段階です。ヨガウェアのブランドにこだわったり、高価なパワーストーンやクリスタルを集めたり、特別な水やサプリメントに執着することです。
「このアイテムを持っていれば救われる」「このウェアを着ている私はイケている」という感覚です。道具への愛着は悪いことではありませんが、それが自己顕示欲と結びついた時、それはただの消費活動となります。
2. 心理的な物質主義(Psychological Materialism)
様々な哲学、宗教、メソッドを学び、知識をコレクションすることです。
「あの流派も知っている、この呼吸法もマスターした」と、知識の量で武装し、安全地帯を作ろうとします。
知性を使って、現実の苦しみから身を守ろうとする態度とも言えます。本来、知識は実践され、知恵となって手放されるべきものですが、ここでは「私は知っている」という優越感の材料になってしまいます。
3. 精神的な物質主義(Spiritual Materialism)
これが最も厄介で、微細なレベルです。
瞑想によって得られる「至福感」や「静寂」、あるいは「神秘体験」そのものを所有しようとすることです。
「昨日の瞑想は素晴らしかった。またあれを体験したい」と執着する。あるいは、自分は高い波動のレベルにいると信じ込み、周囲を見下す。
ここでは、エゴが「スピリチュアルな聖者」という最高の衣装をまとって隠れているため、本人さえも気づくのが難しくなります。
資本主義と「生産性」の呪い
なぜ私たちはこうなってしまうのでしょうか。
背景には、現代社会を覆う資本主義的な価値観があるように思います。
私たちは「投資対効果(ROI)」を求めることに慣れすぎています。
時間やお金を投じたら、それに見合う「成果」が欲しくなるのです。
瞑想をしたら → 仕事の生産性が上がるはずだ
ヨガをしたら → スタイルが良くなってモテるはずだ
本を読んだら → 賢くなって尊敬されるはずだ
このように、あらゆる行為を「何かを得るための手段」として捉えてしまいます。
しかし、本来のヨガや禅は「無所得」、つまり「何も得るところがない」ことを良しとします。
ただ座る、ただ呼吸する。そこに「利益」や「向上」を持ち込まない。
この「無目的」という在り方は、成果主義の社会に生きる私たちにとって、最大の恐怖であり、同時に唯一の救いでもあります。
エゴを殺すために、エゴを使わないこと
「エゴをなくしたい」「無我になりたい」
そう願うことさえ、実はエゴの欲望かもしれません。
「無我になった素晴らしい私」になりたいと願っているからです。
では、どうすればこの巧妙な罠から抜け出せるのでしょうか。
1. 「特別」であろうとするのをやめる
ヨガをしているからといって、あなたは特別な人間ではありません。
オーガニック野菜を食べていても、ジャンクフードを食べている人より偉いわけではありません。
「私はただの凡人である」という地点に、何度でも立ち返ることです。
禅の言葉に「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」とあります。当たり前の日常の中にこそ、真理はあります。
2. 失望を歓迎する
期待通りの瞑想ができなかった時、ヨガをしてもイライラが消えなかった時。
その「失望」こそが、幻想を打ち砕くチャンスです。
「ああ、私はまた何かを期待していたな」「成果を求めていたな」と気づくこと。
うまくいかない時こそ、エゴの皮が剥がれ落ちる瞬間です。
3. 引き算の美学を持つ
何かを足していく(知識、経験、資格)のではなく、引いていくこと。
「アパリグラハ(不貪)」の実践です。
自分についた飾りを一つひとつ下ろしていく。
最後には、ただ縁側に座って、空を眺めている「何者でもない自分」だけが残る。
その軽やかさこそが、私たちが目指す場所ではないでしょうか。
終わりに
精神的な学びは、山を登って頂上で万歳をするためのものではありません。
むしろ、山を降りて、里の人々と共に生き、畑を耕し、お茶を飲むためのものです。
もしあなたが今、ヨガや瞑想を実践していて、どこか息苦しさや、他人へのジャッジメント(批判心)を感じているなら、少し荷物を下ろしてみましょう。
「悟り」なんて立派なコレクションは、放り出してしまっても構いません。
手ぶらになること。
何者でもなくなること。
それが、最も高度な、そして最もシンプルなヨガの実践なのです。
縁側は、いつでも開かれています。
何も持たずに、ただ涼みにいらしてください。
ではまた。


