お茶をすすりながら、ふと現代のヨガシーンを見渡すと、どうやら多くの人が奇妙な労働に従事しているように見えます。
それは、映画館のスクリーンに映し出された悲劇のヒロインを救おうとして、必死にスクリーンそのものをタオルでゴシゴシと磨いているような光景です。
ヨガ哲学において、この世界(現象界)は「マヤ(幻影)」であり、私たちの本質である「真我(アートマン)」が映し出されるスクリーンに過ぎません。
しかし、現代のヨギたちは、映写機(内面)を調整することを忘れ、スクリーン(肉体・外見)のホコリを払うことに、人生という貴重な時間を費やしています。
今日は少し辛口のお茶をお出しします。
なぜ私たちが、これほどまでに「外側」を磨くことに躍起になり、ヨガという解放のツールを、新たな拘束具にしてしまったのか。その理由を静かに、しかし容赦なく解き明かしていきましょう。
現代ヨガが「肉体磨き」に堕した7つの理由
1. 「消費」しかできない身体になった私たち
資本主義の最終形態は、商品を買わせることではありません。「自分自身を商品化させる」ことです。
現代ヨガにおいて、肉体は神の神殿ではなく、「陳列棚」になりました。レギンス、プロテイン、オーガニックコスメ。これらを纏い、摂取し、磨き上げられた身体は、SNSという市場で「いいね」という通貨と交換されるための資産です。
私たちはヨガをしているのではありません。「ヨガをする私」という商品を、必死にメンテナンスしている工場の管理者になってしまったのです。
2. 不安産業としてのヨガスタジオ
多くのヨガスタジオは、実は「不安」を売っています。
「そのお腹で夏を迎えられますか?」「骨盤が歪んでいると不幸になりますよ」。
本来、「足るを知る(サントーシャ)」を教えるはずの場所が、ドアを開けた瞬間に「あなたは欠陥品である」というメッセージを突きつけてくる。
そして、その欠陥を埋めるためのサブスクリプションを売りつける。これは宗教ではなく、極めて洗練されたマッチポンプ商法です。
3. 「鏡」というナルシシズム増幅装置
スタジオの壁一面の鏡。あれはアライメント(姿勢)の確認用だというのは建前です。
実際には、あれは自意識を肥大化させるための装置です。
ポーズを取りながら、チラリと鏡を見る。「今日の私、ちょっとイケてるかも」あるいは「隣の人より脚が太いかも」。
このジャッジメント(判断)の連続が、ヨガの目的である「心の死滅(チッタ・ヴリッティ・ニローダ)」を、物理的に不可能にしています。鏡を見ている限り、あなたは永遠にエゴの奴隷です。
4. 「健康」という名の新しいファシズム
現代において「健康」は、もはや義務であり、道徳的優位性の証明です。
スリムで筋肉質な身体は「自己管理ができている」という証明書となり、そうでない身体は「怠惰」の烙印を押されます。
ヨガはこの「健康ファシズム」の最前線に動員されました。
「デトックス」「アンチエイジング」。これらの言葉は、老いや死という自然の摂理を「悪」とし、排除しようとする傲慢な思想です。私たちは死なないためにヨガをするのではありません。よく死ぬためにヨガをするのです。
5. 承認欲求という名の現代病
SNSのタイムラインには、難解なポーズを決める「映える」写真が溢れています。
しかし、考えてみてください。なぜ、内観のための行法を、他者に見せる必要があるのでしょうか?
それは、私たちが「誰かに見られていないと、自分の存在を感じられない」という深刻な実存の危機に瀕しているからです。
カメラのレンズを通さないと、自分の身体感覚すら信じられない。これは一種の身体的失語症です。
6. プロセスの軽視、結果への渇望
現代社会は「待てない」社会です。
Amazonの翌日配送のように、私たちはヨガにも即効性を求めます。
「3週間で開脚」「1ヶ月でマイナス5キロ」。
本来、ヨガの変化とは、地層が積み重なるように、あるいは木が年輪を刻むように、静かで目に見えないものです。
しかし、私たちはその遅さに耐えられない。だから、手っ取り早く「やった感」が得られる筋肉痛や、派手なポーズに飛びつくのです。
7. 「空っぽ」であることへの恐怖
何もしない時間、ただ座っている時間。現代人にとって、これほど恐ろしいものはありません。
空白が怖いから、スマホを見る。静寂が怖いから、音楽を流す。
ヨガのクラスでさえ、止まることが許されず、常に動き続ける「フロー」が好まれるのはなぜか。
それは、止まってしまった瞬間に、直面したくない自分の空虚さや、押し殺した感情が噴き出してくるのを知っているからです。
動き続けることは、自分自身から逃げ続けるための、最も効率的な手段なのです。
スクリーンを磨く手を、そっと止める
辛辣なことを書き連ねましたが、これは私自身への自戒でもあります。
現代社会という荒波の中で、たった一人で正気を保つのは至難の業です。
しかし、だからこそ、私たちは気づかなければなりません。
必死に磨いているそのスクリーン(肉体・外見)は、いずれ必ず朽ち果て、消え去るものであると。
映画が終われば、スクリーンはただの白い布に戻ります。
どれだけ綺麗に磨いても、そこに映る悲劇や喜劇を変えることはできません。
変えるべきは、映写機の中にあるフィルム(心・認識)です。
あるいは、映写機の光そのもの(意識)に気づくことです。
外側を磨く手を止めたとき、初めて私たちは、内側にある静寂という本当の宝物に触れることができます。
ヨガマットの上は、商品を陳列するショーウィンドウではありません。
そこは、鎧を脱ぎ、仮面を外し、ただの「命」として呼吸するための、聖なる避難所(サンクチュアリ)なのです。
鏡を割って、縁側に出ましょう。
そこには、インスタ映えはしないけれど、肌を撫でる風と、確かな「今」があります。
スクリーンの汚れなんて、どうでもいいじゃないですか。
映画の内容(人生)を、心から楽しむことの方が、よほど大切なのですから。


