ただ風の音を聞いていると、現代社会がいかに「過剰な物語」で溢れかえっているかを感じざるを得ません。
ヨガの世界もまた、その例外ではないようです。
「今日はチャクラを開きましょう」
「宇宙のエネルギーを下ろします」
スタジオの薄暗がりの中で、指導者が神秘的な声色で語りかけ、生徒たちが必死に何かを感じようとしている光景。
今回は、現代ヨガにおける「エネルギーワーク」について、少し辛辣かもしれませんが、本質的なお話をさせていただきます。
プラーナ(気)という概念は、ヨガにおいて非常に重要です。しかし、現代で消費されている「エネルギー」という言葉は、本来のそれとは似て非なるものに変質してしまっているように思えるのです。
目に見えない力に救いを求める前に、私たちはまず、地に足をつけて考える必要があります。
もくじ.
エネルギーワークとは何か? 歴史的背景から紐解く
まず、言葉の定義から始めましょう。
ヨガにおけるエネルギーとは、「プラーナ(Prana)」を指します。これは単なる「元気」や「雰囲気」のことではありません。宇宙に遍満し、私たちの生命活動を支える根源的な力のことです。
古代のハタヨガ行者たちは、このプラーナを体内の管(ナディ)に通し、制御するために、極めて物理的で厳しい修行を行いました。
彼らにとってエネルギーワークとは、ふんわりとした癒やしではなく、死をも覚悟した、神経系と意識の外科手術のようなものだったのです。
しかし、現代の「エネルギーワーク」はどうでしょうか。
多くの場合、それはニューエイジ思想と自己啓発が混ざり合った、手軽な「ヒーリング手法」としてパッケージングされています。
ここに、現代ヨガが抱える大きな乖離があります。
現代ヨガにおけるエネルギーワークの問題点
なぜ、私はあえてこのテーマに警鐘を鳴らすのか。
それは、安易なエネルギーワークへの傾倒が、ヨガの本質である「エゴからの解放」を妨げ、むしろ「エゴの肥大」を招いている現状があるからです。
具体的に、現代ヨガの問題点をリストアップして論じてみましょう。
1. スピリチュアル・バイパス(霊的迂回)の温床
これが最大の問題です。心理学用語で「スピリチュアル・バイパス」とは、現実の課題(人間関係のトラブル、借金、心の傷など)に向き合うことを避け、精神世界へ逃避することを指します。
「グラウンディング」と口では言いながら、現実の生活は荒れ放題。
「すべては愛と光」と唱えることで、目の前の怒りや悲しみを抑圧する。
エネルギーワークは、痛みを伴う現実を見ないための、高尚な「麻酔薬」として使われているのです。
2. 「特別選民意識」とエゴの強化
「私にはオーラが見える」「私はエネルギーに敏感だ(HSPやエンパス)」。
こうした自認は、しばしば「私は目覚めているが、周りの大衆は眠っている」という優越感に結びつきます。
本来、ヨガは「私」という意識を薄くしていくプロセスです。しかし、現代のエネルギーワークは「特別な能力を持つ私」という、最もタチの悪いスピリチュアル・エゴを強化する装置になってしまっています。
「私は繊細だから」という言葉が、他者を理解しようとしない免罪符になってはいないでしょうか。
3. 感性の搾取と集団催眠
ワークショップで「手のひらに温かさを感じますか?」と聞かれ、何も感じないのに「はい」と答えてしまった経験はないでしょうか。
そこには「感じない人は感性が鈍い」という無言の同調圧力が働いています。
指導者の暗示と、参加者の「感じたい」という欲望が共鳴し、プラシーボ効果を生み出す。それは覚醒体験ではなく、一種の集団催眠です。
4. ドーパミン中毒と「精神のファストフード」
現代社会は「待てない」社会です。
地道に数十年かけてアーサナ(ポーズ)と呼吸を練り上げるよりも、「週末のセミナーでチャクラ全開!」という即効性を求めます。
一時的な高揚感やトランス状態は、脳内でドーパミンが出ているだけであり、悟りとは無関係です。この「精神のファストフード化」が、依存ビジネスを肥え太らせています。
5. 肉体の軽視(器の破損)
エネルギーとは、電気のようなものです。強力な電気を流すには、太く丈夫な電線(肉体と神経系)が必要です。
現代人は、運動不足や添加物の摂取、睡眠不足で、肉体という「器」がボロボロの状態です。その状態で強力なエネルギーワークを行うことは、ショートを起こしに行くようなもの。
クンダリニー症候群や、禅でいう「魔境(精神のバランスを崩すこと)」に陥るリスクに対し、現代ヨガはあまりに無防備です。
なぜ現代人は「見えない力」にすがるのか? 社会の病理
この現象は、個人の弱さだけが原因ではありません。私たちを取り巻く社会環境が、人々をそこへ追い込んでいる側面も否定できません。
不確実性への恐怖とコントロール欲求
AIの台頭、経済の停滞、パンデミック。現代社会はあまりに不確実で、個人の力ではどうにもならない巨大な力に翻弄されています。
理不尽な現実に直面した時、人は「見えない力」にすがることで、万能感を取り戻そうとします。
「エネルギーさえ整えれば、現実はコントロールできる」「引き寄せられる」という幻想は、無力感に対する現代人の悲鳴のような防衛反応なのです。
孤独とコミュニティの喪失
地縁や血縁が希薄になり、私たちは砂粒のような個人として孤立しています。
エネルギーワークの場は、「波動」や「次元」といった共通言語を持つ「疑似家族」を提供してくれます。
たとえそれが社会から浮いた集団であったとしても、冷たい都会の孤独よりは、温かい居場所に見えるのでしょう。
EngawaYoga的提言:本当のエネルギーとは「静寂」である
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。
答えは、拍子抜けするほどシンプルです。
「地味なことを、淡々とやる」。これに尽きます。
身体という「器」を焼き締める
見えないエネルギーを云々する前に、まずは見える肉体を整えること。
毎日のアーサナで筋肉と骨格を整え、規則正しい生活で自律神経を養う。
陶芸家が土を練り、窯で器を焼き締めるように、エネルギーを受け止めるための強固な身体を作ることが先決です。穴の空いたバケツに、水は溜まりません。
呼吸という「命の綱」を握る
最も安全で、かつ強力なエネルギーワークは「深呼吸」です。
特別なイメージングはいりません。ただ、吸って、吐く。その息の一つひとつに意識を乗せる。
乱れた呼吸を整えることは、乱れた気を整えること。古来より伝わるこのシンプルな真理に立ち返るだけで十分です。
「わからない」に留まる勇気
安易な物語に飛びつかないこと。
「エネルギーを感じない自分」を許すこと。「わからない」という宙吊りの状態に耐える知性を持つこと。
エゴが作り出すドラマチックな体験を求めず、ただ「今、ここ」にある退屈な現実を直視できた時、初めて本物のエネルギー——すなわち「静寂」——が向こうから訪れます。
おわりに:日常にこそ、神は宿る
私たちは、派手な奇跡を求めすぎています。
しかし、本当のヨガは、ドラマが終わった後の「何もない場所」にあります。
色とりどりのオーラが見えなくても、チャクラが回転している感覚がなくても、全く問題ありません。
今日、ご飯がおいしかったこと。
縁側で風を感じて心地よかったこと。
誰かに「ありがとう」と言えたこと。
そのささやかな日常の営みの中にこそ、生命エネルギーの最も美しい輝きがあります。
見えない世界へ逃げる靴を脱ぎ、裸足で大地を踏みしめましょう。
その一歩の重みを感じることこそが、最強のエネルギーワークなのですから。


