ヨガ哲学の根幹にある「マヤ(幻影)」という概念は、現代物理学のシミュレーション仮説とも奇妙に符合します。
私たちは、自分自身の内側にあるフィルムを、現実というスクリーンに投影し、その映画に一喜一憂している観客のようなものです。
悲劇の映画を見て泣いている時、スクリーンを拭いても涙は止まりません。
フィルムを変えるか、あるいは映写機の電源を落とすしかないのです。
しかし、現代のヨガシーンを見渡すと、どうやら多くの人が「スクリーンを必死に磨く」ことに躍起になっているようです。
今日は、少し辛辣になるかもしれませんが、現代ヨガが陥っている「幻想の強化」という病について、そして私たちが本来立ち戻るべき「投影の停止」について、深く思索していきたいと思います。
もくじ.
世界は「マヤ(幻影)」であるという真実
古代インドのヴェーダ哲学、特にアドヴァイタ・ヴェーダンタ(不二一元論)において、この現象世界は「マヤ」であると説かれます。
マヤとは、単なる幻覚という意味ではありません。「測りうるもの」「境界を作るもの」という語源を持ち、絶対的な真実(ブラフマン)を覆い隠し、多様な現象として見せる宇宙的な力を指します。
ヨガ・スートラでは、私たちが苦しむ理由を「アヴィディヤー(無明)」にあると断言します。
これは、ロープを蛇だと見間違えて恐怖するように、実体のないものに自分の過去の記憶や恐怖を「投影(アデャーサ)」して、勝手に苦しんでいる状態です。
嫌いな上司、将来への不安、社会への不満。
それらは外部に客観的な事実として存在するのではなく、あなたの内なるプロジェクターが映し出した映像です。
世界が苦しいのではありません。あなたの心が、世界を苦しいものとして解釈(投影)しているだけなのです。
現代社会は「投影」を強化する巨大装置
現代資本主義社会は、この「マヤ」を巧みに利用し、強化することで成立しています。
現代思想の視点を借りれば、私たちは「他者の欲望」を欲望させられています。
「これを持っていれば幸せになれる」「あそこに行けば何者かになれる」。
メディアやSNSは、私たちの欠乏感を刺激し、新たな幻想を次々と投影させます。
私たちは、ありのままの現実を見ることを許されず、常に何重ものフィルター(偏見、常識、広告)を通して世界を見ています。
そのフィルターこそが、苦しみの源泉であるにもかかわらず、社会はそのフィルターを分厚くすることを推奨してくるのです。
現代ヨガが抱える「幻想強化」という病
本来、ヨガとはこの「投影」を終わらせるためのシステムでした。
心の波(チッタ・ヴリッティ)を止滅させ、スクリーンを無色透明に戻すこと。それがヨガの定義です。
しかし、現代のヨガはどうでしょうか。
幻想を晴らすどころか、むしろ幻想を強化する「共犯者」になってはいないでしょうか。
あえて厳しい言葉を使いますが、現代ヨガが抱える構造的な欠陥をここにリストアップします。
これらは、私たちが「投影」から目覚めるのを妨げる大きな要因となっています。
1. 「ヨガウェアを着た私」という新たなエゴの投影
最も顕著な問題は、ヨガがファッション化し、自己顕示のツールになったことです。
「ルルレモンを着て、美しいポーズをとる私」というイメージをSNSに投影し、他者からの「いいね」という承認を求める。
これは、エゴ(アハンカーラ)を消すどころか、かつてないほど肥大化させています。
私たちは「ヨガをする自分」という新しいコスチュームを着て、自我の演劇を続けているに過ぎません。
2. 資本主義的「ウェルビーイング」への加担
「ヨガで生産性アップ」「ストレス解消して明日も頑張ろう」。
これらは一見ポジティブですが、実態は「資本主義の歯車として、より効率的に働くためのメンテナンス」にヨガが使われているということです。
システムそのものの狂気(マヤ)には疑問を呈さず、そのシステム内で快適に生きるための対症療法として消費されるヨガ。
それは、監獄の中で快適な枕を探しているようなものです。
3. 「身体の美しさ」という幻想への執着
「痩せる」「美尻になる」「アンチエイジング」。
肉体はいつか滅びるマヤの最たるものです。
しかし、現代ヨガの多くは、この滅びゆく肉体をあたかも永遠であるかのように崇め、磨き上げることに執心しています。
肉体への執着は、老いや死への恐怖を生み出し、魂を物質世界に縛り付ける最も太い鎖となります。
4. スピリチュアル・バイパス(霊的迂回)の温床
「すべてはポジティブ」「愛と光」。
こうした耳触りの良い言葉で、直面すべき現実的な痛みや、自身の内側にあるドロドロとした影(シャドウ)から目を逸らす傾向があります。
これを「スピリチュアル・バイパス」と呼びます。
不都合な現実を見ないふりをすることは、投影を消すことではありません。単に、自分の見たい幻想の中に逃げ込んでいるだけです。
それは覚醒ではなく、麻酔です。
5. 指導者と生徒の共依存という幻想
「グル(先生)がいれば救われる」という投影。
先生は生徒に「崇拝される自分」を投影し、生徒は先生に「救済者」を投影する。
この共依存関係の中では、誰も自立しません。
真のヨガは、外部の救済者を否定し、自らの内なる光(アートマン)に気づくための孤独な作業であるはずです。
映写機の電源を落とすために
では、私たちはどうすればこの巨大な幻想から目覚めることができるのでしょうか。
世界を変える必要はありません。
プロジェクターである「心」の仕組みを変えるのです。
判断を止める(エポケー)
目の前の現象に対して、「良い・悪い」「好き・嫌い」というラベルを貼るのをやめます。
ただ、「雨が降っている」という事実だけを見る。「雨で憂鬱だ」というのはあなたの投影です。
判断を保留し、事象をただあるがままに観る練習。これを「サークシー(目撃者)」の視点と呼びます。
静寂に座る
行為(カルマ)を減らし、外部からの刺激を遮断する時間を持つこと。
EngawaYogaで推奨している「ただ座る」という行為は、まさに映写機の電源を落とす練習です。
静けさの中で、思考というフィルムが空回りし、やがて止まるのを待つ。
すると、スクリーンには何も映らなくなります。
その「無(シューニャ)」の状態こそが、逆説的に、すべてが存在する「空」の豊かさなのです。
「私は誰か」を問い続ける
ラマナ・マハルシが説いた「ヴィチャーラ(自己探求)」。
怒りが湧いたとき、「怒っているのは誰か?」と問うてください。
「私だ」という答えが返ってきたら、「では、その私は誰か?」とさらに問う。
玉ねぎの皮を剥くように、投影された「私」を一枚ずつ剥がしていくと、最後には何も残らない。
その「何もない」という感覚こそが、純粋な意識(プルシャ)です。
終わりに:幻想の終わりは、本当の人生の始まり
「この世は幻想だ」と言うと、虚無感を感じる人もいるかもしれません。
しかし、それは逆です。
自分が勝手に作り出した「こうでなければならない」「私は不幸だ」という悪夢から目覚めることができるということです。
幻想が消えたとき、世界は色褪せるのではなく、かつてない鮮やかさを持って現れます。
道端の雑草の緑、風の冷たさ、人の笑顔。
私のフィルターを通さない、世界そのものの息吹(プラーナ)が、直接あなたの中に流れ込んできます。
ヨガマットの上で、鏡に映る自分を見るのをやめてみてください。
目を閉じ、内側の暗闇を見つめる。
そこに映し出される映像すらも手放していく。
投影が終わった場所。
そこには、何の装飾もない、ただ「在る」という静かな安らぎだけが広がっています。
その場所で、お待ちしております。
ではまた。


