最近、ふと考えることがあります。
私たちの周りにある「ヨガ」と呼ばれるものは、本当に、かつてインドの賢者たちが森の中で探求していたそれと同じものなのでしょうか。
もちろん、時代が変われば形が変わるのは世の常です。
しかし、きらびやかなウェアに身を包み、鏡の前でポーズの美しさを競い合う現代の風景を見ていると、何かが決定的に抜け落ちているような気がしてなりません。
それはまるで、中身の入っていない美しい香水瓶を、大切に棚に飾っているような感覚に似ています。
今日は、少し批判的な視点になるかもしれませんが、現代ヨガが抱える構造的な問題点について、社会的な背景と絡めながら整理してみたいと思います。
これは誰かを責めるためではありません。
ただ、私たちが無意識に背負わされている「荷物」に気づき、それをそっと下ろすための思索の時間です。
もくじ.
資本主義に飲み込まれた身体
まず直視しなければならないのは、ヨガが巨大なマーケット、つまり商品になってしまったという事実です。
現代社会において、あらゆる体験は「消費」の対象となりますが、ヨガも例外ではありません。
ここには、現代特有の病理がいくつか見え隠れしています。
「不足」を埋めるための消費活動になっている
「もっと痩せなければ」
「もっと健康にならなければ」
「もっと柔軟でなければ」。
現代のマーケティングは、私たちに「今のままでは不完全である」というメッセージを絶えず送り続けてきます。その欠落感を埋めるための商品として、ヨガが売られているのです。本来、ヨガは「すでに満たされている(プールナ)」ことに気づくプロセスであるはずなのに、逆説的にも「足りない自分」を強化する装置になってしまっています。
「効率」と「生産性」の追求
「1時間で◯◯キロカロリー消費」「短期間でデトックス」。現代人は、余暇の時間でさえも生産的であることを求められます。タイムパフォーマンス(タイパ)という言葉が流行るように、私たちは無駄を極端に恐れています。しかし、ヨガの本質は「無為(何もしないこと)」の中にあります。効率を求めた瞬間に、それは単なるエクササイズへと変質してしまうのです。
ファッション化と記号の消費
高価なレギンスやブランドもののマットを持つことが、ステータスの一部となっています。これはボードリヤールが言うところの「記号の消費」に他なりません。私たちはヨガという実践そのものではなく、「ヨガをしている私」というお洒落な記号を消費しているに過ぎないのかもしれません。
視覚優位社会が生んだ「鏡」の呪縛
多くのスタジオには、壁一面に鏡が張られています。
自分の姿勢(アライメント)を確認するためには有用なツールですが、この「鏡」こそが、ヨガの内面への没入を妨げる最大の要因になっているとも言えます。
内観よりも外観を優先してしまう
ヨガの八支則(悟りへの8つの階段)には、「プラティヤハラ(感覚制御)」という教えがあります。これは、意識を外側から内側に引き込む練習です。しかし、鏡があることで、私たちの意識は常に「外からどう見えるか」という視覚情報に釘付けになります。身体の内側で起こっている微細な感覚よりも、鏡の中のフォルムの美しさを優先してしまうのです。
ナルシシズムと自己否定の強化
SNSの普及がこれに拍車をかけています。インスタグラムに投稿される「映える」ポーズ。難易度の高いアーサナができることが、あたかもヨギとしての位が高いかのような錯覚。他者からの「いいね」を求める承認欲求は、エゴ(自我)を肥大化させます。一方で、画面の中の理想的な身体と自分を比較し、自己否定に陥る人も少なくありません。ヨガはエゴを消滅させるための道であるはずが、逆にエゴを強化する場になってしまっているという皮肉な現実があります。
身体からの乖離と「痛み」の無視
現代人は、頭(思考)ばかりが肥大化し、身体感覚が希薄になっています。
内田樹氏が指摘するように、私たちは身体を「私の命令に従うべき奴隷」あるいは「所有物」として扱っている節があります。
身体の声を無視したオーバーワーク
「頑張れば結果が出る」という能力主義的な思考を、そのままマットの上に持ち込んでしまいます。その結果、身体が発している「痛い」「苦しい」という小さな悲鳴を無視し、インストラクターや周りのペースに合わせて無理をしてしまう。怪我をするヨガ実践者が後を絶たないのは、自分の身体を「管理対象」として見ているからです。身体は管理するものではなく、対話する相手であり、自然そのものです。
解剖学的な正しさへの過度な執着
もちろん、解剖学は大切です。しかし、「膝は90度」「骨盤は正面」といった「正解」に縛られすぎると、自分の身体が今どう感じているかという「実感」がおろそかになります。万人に共通する正解のフォームなど存在しません。骨格も筋肉のつき方も一人ひとり違うからです。外側の正解を求めすぎて、内側の感覚という羅針盤を失っているのが現状です。
精神性の欠如と「ポーズ」への偏重
ヨガ=アーサナ(ポーズ)という認識が一般的ですが、古典的な経典『ヨガ・スートラ』において、アーサナについての記述は全体のほんの一部に過ぎません。
ヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)の軽視
ヨガの基礎となるのは、アヒムサ(非暴力)やサティヤ(正直)といった、日常の生きる姿勢(ヤマ・ニヤマ)です。しかし、現代のスタジオレッスンの多くは、ここを飛ばしていきなり身体を動かします。土台のないところに家を建てるようなものです。マットの上でどれだけ難しいポーズができても、マットの外で他者を傷つけたり、自分に嘘をついたりしていては、それはヨガとは言えません。
瞑想なきエクササイズ
多くのクラスにおいて、シャヴァーサナ(最後の休息)はおまけ程度に扱われています。しかし、アーサナは本来、長く快適に座って瞑想するための準備体操に過ぎません。瞑想という「静寂」に至るプロセスを省略し、身体的な爽快感だけを持ち帰る。それでは、ラジオ体操やストレッチと何ら変わりがありません。
本来のヨガに還るために
少し厳しいことを並べてしまいましたが、私は現代ヨガを全否定したいわけではありません。
入り口は何であれ、ヨガに触れることは素晴らしいことです。
ただ、もしあなたが、ヨガをしていても「何かが満たされない」「逆に疲れてしまう」と感じているのなら、それは方法が間違っているのではなく、方向性が少しズレているだけなのかもしれません。
得るヨガから、手放すヨガへ。
見せるヨガから、感じるヨガへ。
消費するヨガから、ただ在るヨガへ。
解決策はシンプルです。
一度、鏡のない場所で、目を閉じてみてください。
他人の目も、SNSの評価も、ウェアのブランドも、昨日の失敗も、明日の不安も。
すべてをマットの外に置いて、ただ座り、自分の呼吸の音だけに耳を澄ませてみる。
そこには、美しいポーズも、下手なポーズもありません。
ただ、生命が脈打つ、温かい静寂があるだけです。
その静けさに触れることこそが、私たちが本当に求めていた「癒やし」であり、本来のヨガの姿なのではないでしょうか。
お茶でも飲みながら、ぼんやりと空を眺める。
そんな、何でもない、生産性のない時間の中にこそ、ヨガの真髄は隠されているのです。
難しいことは何もありません。
ただ、荷物を下ろせばいいのですから。


