私たちの日常は、驚くほど「繰り返し」によって織りなされています。なぜかいつも同じタイプの人に惹かれては傷つき、なぜかいつも大事な場面で同じような失敗をしてしまう。あるいは、特定の言葉をかけられると、決まって同じように腹が立ったり、落ち込んだりする。この現象は、単なる偶然や不運なのでしょうか。
ヨガの叡智は、これを「サンスカーラ(saṃskāra)」という言葉で説明します。サンスカーラとは、過去のあらゆる行為、思考、感情が私たちの心、あるいはもっと深い意識の層に刻み込んだ「潜在的な印象」や「習性」のことです。それは、何度も車が通ったあとにできる轍(わだち)のようなもの。最初は意識的にハンドルを切って通っていた道も、轍が深くなれば、無意識のうちにハンドルがそちらに取られてしまう。私たちの心も同様に、過去に繰り返された反応のパターンに、知らず知らずのうちに引きずられているのです。これは仏教でいうところの「習気(じっけ)」、つまり香りが物に染み付くように、行為の習慣が私たちの存在に染み付いてしまった状態とも言えます。
この無意識の自動操縦は、ある意味で効率的です。いちいち考えなくても日常のタスクをこなせるのは、このサンスカーラのおかげでもあります。しかし、その轍が私たちを望まない場所、つまり苦しみや自己否定の沼地へと導いているとしたら、話は別です。私たちはその轍から抜け出し、新たな道を切り拓く必要があります。
では、どうすればこの根深いパターンから自由になれるのでしょうか。その第一歩は、驚くほどシンプルです。それは、ただ「気づく」こと。自分の内側で何が起きているのかを、批判も評価もせず、ただ静かに観察することです。
例えば、ヨガのアーサナ(ポーズ)を練習している時。困難なポーズに挑戦する時、あなたの心にはどんな声が聞こえてくるでしょうか。「どうせできない」「人より身体が硬い」「もっと頑張らねば」といった自己批判の声でしょうか。あるいは、焦りや苛立ちといった感情が湧き上がってくるかもしれません。その声や感情に気づいた時、それを追い払おうとしたり、無理にポジティブに考えようとしたりする必要はありません。ただ、「ああ、今、私は自分を批判しているな」「焦りの感覚が胸のあたりに広がっているな」と、まるで他人事のように、あるいは空に浮かぶ雲を眺めるように、客観的に認識するのです。
私たちの身体は、この気づきの稽古において、最も正直な師となります。思考は私たちに嘘をつくことがありますが、身体は嘘をつけません。特定の状況で肩に力が入る、奥歯を食いしばる、呼吸が浅くなる。これらはすべて、身体が発しているサンスカーラのサインです。その身体感覚に意識を向けることで、私たちは思考のレベルでは見逃していた、より深いレベルのパターンを捉えることができるようになります。それはまるで、熟練した武道家が相手の微細な動きから次の攻撃を読み取るように、自らの身体感覚から無意識のパターンを読み解く術(すべ)を身につける稽古なのです。
日記やジャーナリングも、この「気づき」を深めるための強力なツールとなり得ます。一日の終わりに、心が動いた出来事と、その時の自分の反応(思考、感情、身体感覚)を書き出してみる。そうすることで、点と点だった出来事が線で結ばれ、「ああ、私はいつも承認されないと感じると、このように心を閉ざす癖があるのだな」といった、自分だけの物語のパターンが見えてきます。
重要なのは、気づいたパターンを「悪いもの」として断罪しないことです。そのパターンは、かつてのあなたが自分を守るために必死で編み出した、生存戦略だったのかもしれません。その健気な努力を認め、労うこと。そして、「今までありがとう。でも、もうそのやり方は必要ないんだ」と、優しく手放していくのです。
気づきの光が当たった時、無意識のパターンはその力を失い始めます。暗闇の中でしか生きられない影のように、光に照らされたサンスカーラは、もはや私たちを自動操縦できなくなるからです。気づくこと。それ自体が、繰り返しの連鎖を断ち切る、最も静かで、しかし最もパワフルな行為なのです。


