私たちは、人生のどこかの時点で「自分は何をすべきか」という根源的な問いに直面します。そして多くの人が、この世界のどこかに「天職」や「ライフワーク」といった、自分だけに用意された完璧な役割が存在するはずだと信じ、終わりのない探求の旅に出ます。それはまるで、砂漠を彷徨う旅人が蜃気楼を追い求める姿に似て、近づけば近づくほど、その実体は遠のいていくかのようです。
この「探求」という姿勢の背後には、一つの大きな思い込みが潜んでいます。それは、ライフタスクとは、完成された形でどこかに「存在する」ものであり、私たちはそれを見つけ出しさえすればよい、という考え方です。しかし、もし、ライフタスクが「見つける」ものではなく、日々の不完全な営みの中で、自らの手でゆっくりと「育てる」ものだとしたら、私たちの探求の旅は、その様相をがらりと変えることになるでしょう。
ヨガや東洋の叡智は、この問いに対して、外側を探すのではなく、自らの内側にある性質に気づき、それを日々の行為の中で体現していく道を示唆しています。それは、壮大な宝探しではなく、足元の土を耕すことから始まる、地道で、しかし確かな道程なのです。
ダルマ – 宇宙と調和する自らの役割
ヨガ哲学には、「ダルマ(Dharma)」という極めて重要な概念が存在します。この言葉は、文脈によって多様な意味を持ちますが、個人の生き方においては「宇宙的な秩序の中で、その人に与えられた本質的な役割や、自然な性質」と理解することができます。それは、単に社会的な職業や義務を指すものではありません。火に燃える性質があるように、水に流れる性質があるように、私たち一人ひとりにも、固有の「あり方」や「働き」が生まれながらに備わっている。その自分の本質(スヴァダルマ)に従って生きることが、ダルマを生きるということです。
自分のダルマを生きることは、川が地形に沿って自然に海へと流れていくのに似ています。そこには無理な力みや抵抗が少なく、むしろ周囲の環境と調和しながら、大きな流れの一部として自らの役割を果たしていく、という感覚があります。逆に、自分のダルマに背いた生き方は、川の流れに逆らって泳ぐようなもので、絶え間ない葛藤とエネルギーの消耗を伴うことになるのです。
問題は、私たちの多くが、この自分自身のダルマの声を聞き取れなくなっているという点にあります。社会の期待、親の価値観、友人との比較といった外部からのノイズが大きすぎて、「こうあるべき」という役割を、自分の本当の性質だと勘違いしてしまう。ライフタスクを探す旅とは、まず、これらの後天的に刷り込まれた「べき論」の鎧を一枚一枚脱ぎ捨て、内なる静けさの中で、本来の自分の性質に耳を澄ませることから始まります。
行為(カルマ)の内にダルマは現れる
では、どうすれば自分のダルマを知ることができるのでしょうか。それは、瞑想をして静かに座っているだけで「啓示」のように降ってくるものではありません。古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』の一部であり、ヨガの聖典でもある『バガヴァッド・ギーター』は、この問いに対する深遠な答えを示しています。
物語の中で、王子アルジュナは、親族と戦わなければならないという自らの宿命(ダルマ)を前に、戦意を喪失し、苦悩します。その彼に対し、師であるクリシュナは、行為の結果に対する執着を捨て、ただ自らに与えられた役割(行為=カルマ)を淡々と遂行することの重要性を説きます。これが「カルマ・ヨーガ(行為のヨガ)」の教えです。
ここから私たちが学ぶべきは、ダルマとは、行為の「前」に知られるものではなく、行為の「中」で、あるいは行為の「後」に、徐々に明らかになってくるものだということです。頭の中で「私のライフタスクは何か」と思考を巡らせているだけでは、何も見えてきません。むしろ、結果がどうなるかは分からなくても、今、目の前にある「なすべきこと」、あるいは自分の心が微かに「やってみたい」と感じることに、誠実に取り組んでみる。その具体的な行動と、世界からのフィードバックの積み重ねの中に、おぼろげながら自分のダルマの輪郭が浮かび上がってくるのです。
ライフタスク探しとは、一発逆転のクイズに正解することではありません。それは、無数の試行錯誤と、時には無駄に見える回り道をも含んだ、実践のプロセスそのものなのです。
「探す」から「なる」へ
「私のライフタスクは何か?」という問いは、私たちを永遠の探求者、つまり「まだそれを見つけていない欠乏した存在」という自己認識に縛り付けます。この問いの立て方を、少しだけ変えてみましょう。「私は今、この行為を通して、何者になろうとしているのか?」と。
この問いは、私たちの意識を、どこかにあるはずの静的な「答え(名詞)」から、今ここでの動的な「プロセス(動詞)」へとシフトさせます。ライフタスクとは、最終的に到達すべきゴール地点の名称ではなく、そちらの方向へ向かって歩んでいくという、生き方そのものを指す言葉なのかもしれません。
ヨガや瞑想の実践は、この内なる「動詞」を感じ取るための感度を高める、絶好の訓練となります。マットの上で、私たちは思考のノイズから離れ、身体の感覚や呼吸の波といった、より根源的な自己の側面に意識を向けます。この静かな時間の中で、外部の期待や評価とは無関係な、自分自身の純粋な衝動や性質に触れる機会が生まれます。
ライフタスクを探す旅は、外側の世界を駆け巡る冒険譚ではありません。それは、自分自身の内側へと深く潜っていく、静かな内観の旅です。そして、その旅の果てに見つかるのは、輝かしい称号や役割ではなく、ただ、ありのままの自分で在ることの、静かで揺るぎない肯定感なのかもしれません。




