カルマという概念が人生の「何を(What)」、つまり行為とその結果の法則を解き明かすものであるならば、ダルマという概念は人生の「なぜ(Why)」と「どのように(How)」、すなわち私たちの存在理由と生きるべき道筋を照らし出す、深遠な羅針盤と言えるでしょう。ダルマは、サンスクリット語で「支えるもの」「保つもの」を意味し、「法」「秩序」「義務」「徳」「本質」など、文脈によって多様な訳がなされる、東洋思想の根幹をなす言葉です。ここでは、ダルマを「宇宙的な秩序の中で、個々の存在に与えられた固有の役割、本質、そしてなすべきこと」と捉え、その探求へと分け入ってみたいと思います。
このダルマという思想は、古代インドのヴェーダ時代にその源流を見ることができます。当初は、宇宙の秩序(リタ)を維持するための祭祀儀礼や、ヴァルナ(四つの階級)ごとに定められた社会的・職業的な義務(ヴァルナ・ダルマ)として理解されていました。しかし、ウパニシャッド哲学を経て、叙事詩『マハーバーラタ』、特にその一部である『バガヴァッド・ギーター』において、ダルマの概念は劇的な深化を遂げます。
『バガヴァッド・ギーター』の舞台は、親族同士が殺し合わなければならないという、悲痛な戦場です。主人公の王子アルジュナは、戦士としての義務と、親族を殺すことへの苦悩との間で立ち尽くします。その彼に、御者として付き添う化身クリシュナが説いたのが、「スヴァ・ダルマ(svadharma)」、すなわち「自分自身のダルマ」を生きることの重要性でした。クリシュナは、他人のダルマを不完全に生きるより、たとえ不完全であっても自分自身のダルマを生きることの方が優れている、と説きます。これは、社会的に押し付けられた役割を果たすこと以上に、個人の内なる本性、魂に刻まれた本来の役割を全うすることこそが、解脱への道であることを示唆しています。
ここから理解されるように、あなたのダルマとは、特定の職業や社会的地位、肩書きといった外面的なものに限定されるわけではありません。それらはダルマの現れの一形態に過ぎず、その本質は、より深い「在り方」に根差しています。ある人にとっては、それは芸術を通して美を表現することかもしれません。またある人にとっては、忍耐強く子供を育てる母親としての役割かもしれません。あるいは、ただ黙って人の話を聴き、その人の心の重荷を軽くすること、それ自体が尊いダルマである場合もあるのです。
ダルマは、宇宙という壮大なオーケストラにたとえることができます。そこでは、ヴァイオリンも、ティンパニも、フルートも、それぞれが固有の音色と役割を持っています。ヴァイオリンがティンパニの役割を羨んだり、自分の音色を恥じたりする必要は全くありません。むしろ、それぞれの楽器が、自分だけに与えられた楽譜を、心を込めて、誠実に奏でることによって初めて、宇宙全体のシンフォニーは完璧な調和を奏でるのです。
自分のダルマを生きることは、最も良いカルマを生み出す道でもあります。なぜなら、ダルマに沿った行為は、エゴの欲望や気まぐれからではなく、魂の最も深いところからの衝動に基づいているからです。それは、最も抵抗が少なく、自然で、パワフルな生き方です。川が海へと向かうように、鳥が空を飛ぶように、あなたがあなたの本質を生きる時、そこには努力を超えた「フロー」の状態が生まれます。
私たちはしばしば、社会的な成功や他人の期待に応えるために、自分自身のダルマから離れた道を歩もうとしてしまいます。しかし、それはまるで、自分のサイズに合わない窮屈な靴を履いて、長距離を歩こうとするようなものです。そこには常に違和感や苦しみが伴います。
あなたのダルマを見つけ、それを生きること。それは、この地上に生まれてきた意味を全うし、自分自身と世界に、最高の貢献をするための、最も神聖な旅路なのです。それは、大いなる宇宙の計画の中で、あなたという唯一無二の存在が担うべき、かけがえのない役割を発見し、それを喜びとともに引き受けることに他なりません。


