私たちの身体が、外部からの刺激に対して緊張したり、弛緩したりするように、一つの文化や思想もまた、他者との出会いによってその姿を大きく変容させます。特に、その出会いが支配と被支配という非対称な権力関係のもとで生じた時、その内側では嵐のような自己問答が巻き起こります。18世紀半ばから約200年間にわたるイギリスによる植民地支配は、インドにとってまさにそのような経験でした。それは単なる政治的・経済的な支配にとどまらず、インドの人々の精神の奥深くにまで根を下ろし、「我々は何者であるのか」という根源的な問いを突きつける、巨大な鏡のような存在となったのです。
この時代、インド思想は未曾有の挑戦に直面しました。西洋近代がもたらした合理主義、科学技術、キリスト教、そして「国民国家」という概念は、それまでのインドが自明としてきた宇宙観や社会秩序、価値体系を根底から揺さぶりました。この衝撃に対し、インドの知識人たちは沈黙していたわけではありません。彼らは西洋という巨大な他者のまなざしを内面化し、苦悩し、格闘する中で、自らの伝統を再解釈し、新たなアイデンティティを築き上げようとしました。この過程で生まれたのが、インド・ナショナリズム(民族・国民意識)であり、それに伴う「伝統への回帰」という力強い潮流でした。しかし、この「回帰」は、単純な過去への逆戻りではありませんでした。それは、西洋という鏡に映った自画像を見つめながら、未来のために「伝統を創造する」という、極めて近代的でダイナミックな営みだったのです。本章では、この複雑で多層的な思想のドラマを、丁寧に紐解いていきたいと思います。
西洋のまなざしと「発見」された伝統
インド思想の近代的変容を理解する上で、まず押さえておかなければならないのは、イギリス統治下で「インド学(Indology)」が誕生したという事実です。ウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)に代表される西洋の学者(オリエンタリスト)たちは、サンスクリット語を学び、ヴェーダやウパニシャッド、法典、叙事詩といった膨大な古典文献を渉猟し、西洋的な学問の枠組みで分類・翻訳・研究しました。彼らの功績によって、サンスクリット語とヨーロッパ諸言語が同じ語族(インド=ヨーロッパ語族)に属することが発見され、インドの古代文明がヨーロッパの古典文明に匹敵する、あるいはそれ以上に古いものであることが明らかにされました。
一見すると、これはインドの豊かな文化遺産に対する純粋な学問的探求のように見えます。しかし、私たちはその背後にある権力構造を見過ごすわけにはいきません。思想家エドワード・サイードが『オリエンタリズム』で鋭く指摘したように、西洋が東洋(オリエント)について語る知の体系は、東洋を支配し、管理するための権力と分かちがたく結びついていました。西洋は、自らを理性的、進歩的、科学的、男性的と定義し、その対極として東洋を非理性的、停滞的、神秘的、女性的と描き出すことで、自らの優位性を確立したのです。
この文脈において、「インドの伝統」は西洋によって「発見」され、都合よく編集されました。例えば、イギリスの統治者や学者は、インド社会の根幹に「カースト制度」と「精神主義」を見出し、それをインドの停滞性の原因であると断じました。一方で、ウパニシャッドやヴェーダーンタ哲学のような深遠な思索については、「アーリア人種」の偉大な精神的遺産として称賛しました。しかし、その称賛は、現代のヒンドゥー教が迷信や偶像崇拝によって堕落してしまった、という含みを伴っていました。
皮肉なことに、このように西洋のフィルターを通して再構成された「インドの輝かしい過去」のイメージは、後にインドの知識人たち自身が自らのアイデンティティを構築する際の、重要な資源となっていきます。西洋から「あなたたちの祖先はかくも偉大だった。それに比べて今のあなたたちは…」というまなざしを向けられたインドの人々は、そのまなざしを跳ね返すために、まさにその「偉大な過去」に依拠せざるを得なかったのです。それはまるで、他人に押し付けられた窮屈な服を、自らの誇りの象徴として仕立て直すような、複雑な心理的プロセスでした。
インド知識人の応答:改革と復興の狭間で
西洋思想の衝撃と、それによって浮き彫りにされた自社会の「遅れ」。この厳しい現実に直面した19世紀のインド知識人たちの応答は、大きく二つの潮流に分けることができます。一つは「改革派」、もう一つは「復興派」です。
改革派の挑戦:ラーム・モーハン・ローイとブラフモ・サマージ
「インド近代化の父」と称されるラーム・モーハン・ローイ(1772-1833)は、改革派の筆頭に挙げられる人物です。彼はサンスクリット語、ペルシア語、アラビア語に加え、英語、ギリシャ語、ヘブライ語にも通じた傑出した知識人であり、西洋の合理主義や人道主義、そしてキリスト教ユニテリアン派(三位一体を否定する理神論的キリスト教)の思想に深く影響を受けました。
ローイは、当時のヒンドゥー教社会に蔓延していた多神教的信仰や複雑な儀礼、偶像崇拝、そして何よりも非人道的なサティー(寡婦殉死の慣行)を厳しく批判しました。彼は、これらの慣行がヒンドゥー教の本来の教えではないと主張します。そして、その論拠を、古代の聖典であるウパニシャッドに求めました。彼にとって、ウパニシャッドに説かれているのは、超越的で唯一なる究極実在ブラフマンへの理性的信仰であり、これこそがヒンドゥー教の純粋な核であると考えたのです。
1828年、彼は自らの理念を実現するため、「ブラフモ・サバー」(後に「ブラフモ・サマージ」となる)を設立しました。この組織は、偶像を置かない礼拝堂で、ウパニシャッドの読誦や説教を行い、合理主義と普遍主義に基づいた新たなヒンドゥー教の形を提示しようとする運動でした。ローイの試みは、西洋からの「ヒンドゥー教は非合理的で野蛮な宗教だ」という批判に対し、「いや、我々の宗教の本質は、あなたたちのキリスト教にも劣らないほど理性的で普遍的なのだ」と応答するものでした。彼は、西洋の土俵の上で、西洋の論理を使いながら、インドの伝統の価値を再定義しようとしたのです。これは、自己の伝統を絶対視するのではなく、他者(西洋)との対話を通じて自己を変革していく、極めて近代的な態度であったと言えるでしょう。
復興派の叫び:ダヤーナンダ・サラスヴァティーとアーリヤ・サマージ
改革派の動きに対して、より断固として西洋の影響を退け、インド古来の伝統への回帰を強く主張したのが「復興派」です。その代表格が、ダヤーナンダ・サラスヴァティー(1824-1883)です。
彼が掲げたスローガンは、明快かつ力強いものでした。「ヴェーダに帰れ!(Back to the Vedas!)」。ダヤーナンダにとって、唯一絶対の真理の源泉は、人類最古の聖典であるヴェーダ(特にサンヒターと呼ばれる根本部分)のみでした。彼は、ウパニシャッド以降のプラーナ文献や叙事詩に見られる偶像崇拝、カースト差別、女性差別の慣行などは、すべて後代の堕落した付加物にすぎないと断じ、それらを徹底的に排撃しました。
1875年に彼が設立した「アーリヤ・サマージ」は、ブラフモ・サマージよりもはるかに戦闘的で、排他的な性格を持っていました。アーリヤ・サマージは、ヒンドゥー教の浄化運動にとどまらず、キリスト教やイスラーム教への改宗者をヒンドゥー教に再改宗させる運動(シュッディ)なども積極的に行いました。彼らの主張は、ヴェーダの教えこそが至上であり、古代のアーリヤ人(インド・ヨーロッパ語族の祖先とされた人々)の文明こそが最も優れているという、強い文化的ナショナリズムに裏打ちされていました。
ローイが西洋との対話と融合を目指したのに対し、ダヤーナンダは西洋との対決と純化を目指したと言えます。しかし、ここにもまた逆説的な構造が見られます。ダヤーナンダが「純粋なヴェーダ」を強調すればするほど、その主張は、西洋のプロテスタンティズムが「聖書のみ」を掲げてカトリック教会を批判した構図と酷似してきます。また、彼がヴェーダを「合理的」で「科学的」な教えであると解釈しようと試みた点にも、西洋近代の価値観への無意識の応答が見て取れます。つまり、伝統への「回帰」を叫ぶ声そのものが、近代という時代状況から逃れられない、近代的な現象であったのです。
ナショナリズムの高揚と「伝統の創造」
19世紀後半になると、これらの思想的潮流は、より明確な政治的ナショナリズムへと合流していきます。1885年のインド国民会議の結成は、その象徴的な出来事でした。インドという広大な亜大陸に住む、言語も宗教も異なる多様な人々を、「インド国民」という一つの共同体としてまとめ上げるためには、共有されるべき物語、すなわち「国民の神話」が必要でした。
その神話の核として選ばれたのが、「インドの精神性」という概念です。西洋が物質主義、功利主義に毒されているのに対し、インドには古来から続く豊かな精神的伝統がある、という二項対立的な世界観が、ナショナリストたちによって強力に推進されました。この図式は、植民地支配下で傷ついたインド人の自尊心を回復させ、政治的な劣勢を精神的な優位性で補うための、効果的なイデオロギーとして機能したのです。
ここで歴史家エリック・ホブズボームの言う「伝統の創造(Invention of Tradition)」という概念が重要になります。ナショナリストたちが依拠した「インドの伝統」は、必ずしも太古から不変のまま受け継がれてきたものではありませんでした。それは、近代という新たな状況に対応するため、過去の要素を取捨選択し、再構成し、しばしば新たな意味付けを施して「創造」されたものだったのです。
例えば、ヴィヴェーカーナンダが西洋に紹介したヴェーダーンタ哲学は、シャンカラの難解な哲学的思弁そのものではなく、社会奉仕や行動主義といった近代的な価値観と融合させた、新しい形の「実践的ヴェーダーンタ」でした。また、ガンディーが非暴力(アヒンサー)の思想的源流を『バガヴァッド・ギーター』やジャイナ教に見出した時、彼はそれらの伝統的な概念に、近代的な政治闘争の手段としての新たな意味を付与したのです。
このようにして、「伝統」は、単なる過去の遺物ではなく、現在を生きる人々のアイデンティティを形成し、未来への行動を鼓舞するための、生きた力として機能し始めました。それは、硬直した岩盤ではなく、時代の要請に応じてその姿を変える、流動的なマグマのようなものだったと言えるでしょう。
結論:植民地主義が残した光と影
イギリス植民地時代は、インド思想にとって苦難の時代であったことは間違いありません。しかし、その苦難の中から、インド思想は新たな生命力を獲得しました。西洋という巨大な他者との対峙を通じて、インドの知識人たちは自らの伝統を客観視し、その普遍的な価値を再発見しました。そして、それを近代的な言葉で語り直すことで、国内のナショナリズムを鼓舞するだけでなく、国境を越えて世界に発信する力を得たのです。ヴィヴェーカーナンダの思想が西洋に与えた衝撃や、ガンディーの非暴力思想が世界中の市民運動に与えた影響は、その何よりの証左です。
しかし同時に、この時代に形成された思想は、現代に至るまで続く複雑な「影」も落としています。特に、「インド=ヒンドゥー教」という等式を強調する復興派の思想は、後のヒンドゥー・ナショナリズム(ヒンドゥトヴァ)の源流の一つとなり、現代インドにおける宗教間の対立や不寛容さという深刻な問題につながっています。「伝統の創造」が、特定の集団のアイデンティティを強化する一方で、他者を排除する論理としても機能しうるという危険性は、私たちが常に心に留めておくべき教訓です。
植民地時代におけるインド思想の格闘は、他者との出会いがいかに自己認識を深め、同時に危うさをもたらすかを示す、壮大なケーススタディです。それは、ヨガの実践において、心地よい伸びを感じるアーサナが、一歩間違えれば身体を痛める原因にもなるのと似ています。外部からの挑戦という「刺激」に対し、いかに内なる声に耳を澄まし、柔軟性を保ちながら応答していくか。その問いは、かつてのインド思想家たちだけでなく、グローバル化が進む現代を生きる私たち一人ひとりにも、静かに、しかし力強く投げかけられているのです。
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