ヨガを推奨しております。
教室でクラスを行っていますと、初心者の方からよくこのような質問をいただきます。
「先生、ヨガをしている時は、目はつぶった方がいいのですか? それとも開けていた方がいいのですか?」
非常に本質的な問いです。
先生の動きを見ようと必死に目を開けている方もいれば、自分の世界に没入しようとギュッと目をつぶっている方もいらっしゃいます。
結論から申し上げますと、「どちらも正解であり、時と場合による」というのが表面的な答えになります。
しかし、ヨガの深淵な哲学に触れるならば、この問いは「私たちは何を見るべきか」という、生き方の問いへと繋がっていきます。
今日は、ヨガにおける「視覚」の役割と、現代社会において私たちが「目を閉じる」ことの意味について、少し深く、静かにお話ししてみたいと思います。
もくじ.
視覚という情報の洪水
まず、私たちの身体の仕組みについて考えてみましょう。
人間が得る情報の8割以上は「視覚」から入ってくると言われています。
色は鮮やかで、形は複雑で、光は眩しい。
現代社会において、私たちは朝起きてから寝る直前まで、スマートフォンやパソコンの画面、広告、他人の視線といった、過剰な視覚情報に晒され続けています。
ヨガの八支則に「プラティヤハラ(制感)」という教えがあります。
これは、外に向きっぱなしになっている感覚器官(目、耳、鼻など)のプラグを抜き、意識を内側に向ける練習のことです。
現代人は、視覚を使いすぎています。
目が疲れているというのは、脳が疲れているということです。
脳が疲れていると、心もざわつきます。
ですから、基本的な考え方として、ヨガの練習中に「目をつぶる」ことは、この過剰な情報の洪水を遮断し、強制的に脳を休ませるための非常に有効な手段となります。
瞼(まぶた)というカーテンを一枚下ろすだけで、私たちは外側の世界から切り離され、内なる静寂へとアクセスしやすくなるのです。
なぜ、鏡を見てはいけないのか
いくつかのヨガスタジオには、壁一面に大きな鏡が張られています。
自分のポーズ(アーサナ)の形を確認するためには便利ですが、ヨガの本質的な観点から言えば、鏡は諸刃の剣です。
鏡に映った自分を見ると、どうしても「ジャッジ(判断)」が始まります。
「あ、太ったな」「ポーズが綺麗じゃない」「隣の人の方が柔らかい」「もっとカッコ良くなりたい」
これらはすべてエゴの声です。
鏡を見ている時、私たちは自分を「内側から感じる」のではなく、「外側から評価する」対象として見てしまっています。これではヨガではなく、単なる形の修正作業になってしまいます。
もし、あなたがポーズの形にとらわれすぎていると感じたら、迷わず目を閉じてください。
形はどうでもいいのです。
その時、足の裏がどう大地に触れているか。
背骨の一つひとつがどう動いているか。
呼吸がどこまで届いているか。
目を閉じることで、視覚に使われていたエネルギーが「感覚」へとまわり、身体の解像度が一気に上がります。
「見る」ヨガから、「感じる」ヨガへ。
そのシフトチェンジをするスイッチが、目を閉じるという行為なのです。
目を開けることの意味:ドリシュティ(視点)
では、常に目をつぶっていれば良いのかというと、そうではありません。
伝統的なヨガ、特にアシュタンガヨガなどでは、ポーズごとに「ドリシュティ(視点)」が定められています。
鼻先を見る、手の指先を見る、へそを見る、といった具合です。
これには明確な理由があります。
一つは、平衡感覚を保つためです。
片足立ちのポーズなどで目を閉じると、多くの人はグラグラして立っていられません。視覚情報を一点に固定することで、身体のバランスを安定させるのです。
もう一つは、「集中」のためです。
視線があちこちに彷徨(さまよ)うと、心も彷徨います。
「あ、あそこの壁が汚れているな」「あの人のウェア素敵だな」
視線が動くたびに、思考(チッタ・ヴリッティ)が波打ちます。
一点を凝視するのではなく、柔らかく一点を見つめ続けること。
これにより、目を開けながらにして、意識を一点に集中させる(ダーラナ)状態を作り出すのです。
ですから、動きのあるヴィンヤサ(呼吸と動きの連動)を行っている時や、バランスポーズの時は、目を開けて、一点を柔らかく見つめることを推奨します。
ただし、その時も「外の景色」を見ているのではなく、その景色を通して「今ここにある自分」を見ている感覚が大切です。
第三の目で見るということ
スピリチュアルな観点から少しアドバイスをさせていただきますと、私たちは肉体の目以外に、もう一つの目を持っています。
眉間の奥にあると言われる「第三の目(サードアイ・チャクラ)」、あるいは「心の目」です。
ヨガの最終的な目的は、この心の目を開くことにあります。
肉体の目は、物質的な世界、つまり「変化していくもの(諸行無常)」しか見ることができません。
しかし、心の目は、目に見えないエネルギーや、変化しない本質(真我)を見ることができます。
瞑想中や、静かなポーズ(陰ヨガなど)の時に目を閉じるのは、この心の目のピントを合わせるためでもあります。
暗闇の中に、光を見たり、広がりを感じたりしたことはありませんか?
それは幻覚ではなく、あなたの意識が物質的な枠組みを超えて拡大している証拠かもしれません。
「目に見えるものが真実とは限らない」
星の王子さまの言葉のようですが、ヨガはそのことを身体を通して実感するプロセスです。
不安や恐れは、多くの場合「目に見える未来」や「目に見える他人との比較」から生まれます。
目を閉じ、内なる宇宙(小宇宙)に意識を向けた時、そこには不安の入り込む隙間がないほどの、圧倒的な静寂と充足が存在することに気づくでしょう。
現代人への処方箋:視覚を閉じて、信頼を開く
現代社会の問題点の一つは、「見えすぎる」ことです。
他人の生活も見えすぎるし、世界の悲惨なニュースも見えすぎる。
すべてが可視化され、監視され、評価される「視覚優位社会」に私たちは生きています。
だからこそ、あえて「見ない」時間を持つことが、魂の救済になります。
ヨガのクラスの中で、シャヴァーサナ(屍のポーズ)の時にアイピロー(目の枕)を置くと、深くリラックスできるのはそのためです。
視界を完全に遮断することで、交感神経(戦う神経)が鎮まり、副交感神経(休む神経)が優位になります。
目を閉じることは、怖いことではありません。
それは「世界を信頼する」という行為です。
目で見張っていなくても、床はあなたを支えてくれます。
監視していなくても、心臓は動き、呼吸は巡ります。
コントロールを手放し、大いなる流れ(ブラフマン)に身を委ねる練習。
それが、ヨガで目を閉じるということの、本当の意味なのかもしれません。
結論:あなたの心地よさが正解です
長くなりましたが、まとめましょう。
立位のポーズやバランスが必要な時は、目を開けて一点を柔らかく見つめてください(ドリシュティ)。
座位のポーズ、リラックスするポーズ、そして自分の内側深くに入りたい時は、どうぞ優しく目を閉じてください。
そして何より大切なのは、先生の指示よりも、教科書のルールよりも、その瞬間の「あなたの感覚」です。
「今は目を閉じたいな」と感じたら、それがその時のあなたのヨガです。
「今は目を開けていたいな」と感じたら、それもまた正解です。
EngawaYogaでは、細かいルールであなたを縛ることはしません。
ただ、縁側で日向ぼっこをする猫のように、細めたり、閉じたり、開いたりしながら、ご自身の心地よい光と闇のバランスを見つけていってください。
大事なのは、瞼(まぶた)の開閉ではなく、心の目が覚めているかどうか、なのですから。
ではまた。


