ヨガを推奨しております。
練習を続けていきますと、ふと気づくことがあります。
「あれ、最近あまり人と会っていないな」とか、「以前ほどグループでの集まりに魅力を感じなくなったな」といった感覚です。
時には、周囲から「付き合いが悪くなった」と言われることもあるかもしれませんし、ご自身でも、社会から少し切り離されてしまったような、微かな寂しさを覚える夜があるかもしれません。
しかし、私はこの場を借りて、はっきりとお伝えしたいのです。
基本的には練習は孤独になっていくのでいいのだと思います。
むしろ、その孤独の深まりこそが、あなたがヨガという道を真摯に歩み、次のステージへと進んでいる何よりの証左なのですから。
今日は、現代社会が恐れる「孤独」というものを、ヨガ的な視点から再定義し、才能と情熱を守るための「シェルターとしての孤独」についてお話ししたいと思います。
もくじ.
好きなことを選ぶとは、孤独を選ぶということ
現代社会は「つながり」を過剰に賛美します。
SNSのフォロワー数や、週末のスケジュールの埋まり具合が、まるでその人の価値であるかのように錯覚させられる時代です。
しかし、物理的な時間は誰にとっても有限です。
一日24時間という枠の中で、何か一つを極めよう、深く愛そうとすれば、当然ながら他の何かを削ぎ落とさなければなりません。
人は自分の好きなことを増やしていくと、多少の孤独はつきものです。
そういうものです。
人付き合いを無限に増やすことはできませんし、すべての人に良い顔をし続けることもできません。
もし、広く浅く、多くの友人に囲まれる人生を望むのであれば、そういった人生を意図的に歩む必要があります。それはそれで一つの才能であり、生き方でしょう。
しかし、もしあなたがヨガであれ、ピアノであれ、あるいは仕事であれ、何か一つの「好き」を選び、その深淵を覗こうとするのであれば、多少の孤独は覚悟するといいと思います。
両立できる人も中にはいるかもしれません。たまたま環境に恵まれたり、超人的な体力があったりすることもあるでしょう。
ですが、基本的にはトレードオフです。
深さを取るか、広さを取るか。
私たちは常に、その選択の岐路に立たされているのです。
1人の時間でしか、育たないものがある
なぜ、孤独が必要なのでしょうか。
それは、1人の時間でしか行えない「鍛錬」があるからです。
例えば、プロのピアニストを想像してみてください。
彼らがその卓越した技術と表現力を維持するために、どれほどの時間をピアノの前で、たった一人で過ごしているでしょうか。
来る日も来る日も、鍵盤と向き合い、音の粒の一つひとつを研ぎ澄ませていく。
その膨大な練習の時間に、友人とカフェでお喋りをする余地はありません。
練習も本番も、そして創作活動の時間も、すべてが彼らにとって必要な時間であり、それらは「他者が介入できない聖域」なのです。
ですから、そんなにいろんな人と会えるわけがないのです。
ヨガも全く同じです。
アーサナ(ポーズ)の微細な感覚、呼吸のリズム、内側から湧き上がる感情の波。
これらを観察し、制御し、純化させていく作業(タパス=苦行、熱)は、完全なる個人の体験です。
誰かとワイワイしながら、内観を深めることはできません。
マットの上では、誰もあなたを助けることはできませんし、あなたも誰かを助けることはできません。
ただ、自分自身の真実と向き合うだけです。
その厳粛な対話の時間を持つためには、物理的にも精神的にも、一人になる必要があるのです。
たくさんの人と友人になっていくことを仕事にしている人もいるかもしれませんが、真の探求者(サダカ)にとっては、それは稀なケースと言えるでしょう。
才能を守るための「孤独の角」
「自分の才能を守りたければ孤独の角が必要だ」
これは、ある種の防衛本能とも言えるかもしれません。
現代社会はノイズに満ちています。
「こうあるべきだ」「これが流行りだ」「あそこの誰々はこう言っている」
そうした他者の声や、社会からの同調圧力は、容易に私たちの内なる声をかき消してしまいます。
自分の持っている資質、あるいは萌芽し始めた才能の種を、踏み荒らされないように守ること。
そのためには、ある種の頑固さを持って、他者を寄せ付けない「孤独の角(すみ)」を確保する必要があります。
いかがでしょうか。
あなたには、誰にも邪魔されない、自分だけの「角」があるでしょうか。
自分の持っている資質を発揮していくには、それ相応な投資時間が必要です。
それは単なる時間の長さだけでなく、注ぎ込むエネルギーの総量でもあります。
才能をスポイルされないように、時には付き合う人間関係を選別し、レベルの高い人たち、あるいは同じような志を持って孤独を引き受けている人たちとの付き合いの時間を増やす必要もあるかもしれません。
馴れ合いの中では、才能は摩耗していきます。
嫌になるほどの練習量が必要なこともあるでしょう。
自分自身の弱さと向き合い、逃げ出したくなるような瞬間もあるでしょう。
それでも、孤独を貫き達成していく。
そういった覚悟が必要なのだと思います。
ヨガのゴールは「独存(カイヴァリヤ)」
少し専門的な話をしますと、ヨガの経典『ヨガ・スートラ』が示す最終的なゴールは「カイヴァリヤ」と呼ばれます。
これは「独存」や「独りあること」と訳されます。
誤解を恐れずに言えば、ヨガとは究極の孤独を目指す旅なのです。
しかし、この孤独は、寂しさや惨めさとは無縁のものです。
他者や環境に依存せず、自分自身の内側に完全なる充足と静寂を見出した状態。
誰かに認めてもらわなくても、誰かと繋がっていなくても、ただ「在る」だけで満たされている状態。
それが、ヨガが目指す「自立した孤独」です。
現代人が恐れる孤独は「孤立(Isolation)」ですが、ヨガが目指すのは「独存(Solitude)」です。
前者は欠乏ですが、後者は豊穣です。
練習を通じて孤独になっていくということは、あなたが外側の世界への依存を手放し、内なる豊かさへとシフトしている兆候なのです。
そのうち友人も変化していきます
孤独を引き受け、自分の道を歩み始めると、人間関係にも変化が訪れます。
古い友人と話が合わなくなったり、疎遠になったりすることもあるでしょう。
それを悲しむ必要はありません。
あなたが変化したのですから、共鳴する相手が変わるのは自然の摂理です。
去る者を追わず、来る者を拒まず。
ヨガには「アパリグラハ(不執着)」という教えがあります。
人間関係や過去のつながりに執着せず、今の自分の波動に合った新たな出会い、あるいは静寂を受け入れていくこと。
孤独の先には、同じように孤独を引き受け、自立した魂を持つ人々との、より深く、静かな交流が待っています。
群れるのではなく、個として立ち、互いを尊重し合える関係性。
EngawaYogaのスタジオも、そのような「独りある人々」が、ひととき同じ空間で呼吸を合わせ、またそれぞれの日常へと帰っていく、そんな場所でありたいと願っています。
ですから、安心して孤独になってください。
練習は裏切りません。
静けさの中で研ぎ澄まされたあなた自身こそが、この世界への最大のギフトとなるのですから。
ではまた。


