ヨガを推奨しております。
長くヨガのクラスに通っていると、指導者の言葉に戸惑いを覚える瞬間が必ず訪れます。
ある先生は言います。「もっと力を抜いて、リラックスして」と。
しかし、別の先生、あるいは同じ先生が次の瞬間にはこう言います。「お腹を引き込んで、足で大地を強く踏みしめて」と。
「どっちなんですか?」と聞きたくなるのも無理はありません。
脱力なのか、筋力なのか。
委ねるのか、コントロールするのか。
この一見すると矛盾(パラドックス)に満ちたアドバイスの森で、迷子になってしまう方は少なくありません。
しかし、この「矛盾」の中にこそ、ヨガの深淵なる叡智、そして私たちが生きるこの世界の本質が隠されています。
今日は、白か黒かでは割り切れない、ヨガのグレーゾーンにある「中庸」というバランスについて、少し深く潜ってお話ししたいと思います。
もくじ.
現代人を蝕む「二元論」の病
まず、私たちがなぜこの矛盾に混乱するのか、その背景にある現代社会の思考癖について触れておきましょう。
私たちは、コンピューターのような「0か1か」「ONかOFFか」という二元論的な思考に慣らされすぎています。
正解か、不正解か。
勝ちか、負けか。
善か、悪か。
このデジタルな思考回路をそのまま身体操作や精神世界に持ち込むと、バグが起きます。
「力を入れる」の反対は「ダラける」になり、「リラックス」の反対は「ガチガチに緊張する」になってしまうのです。
しかし、人間の身体や心は、そのような単純なスイッチで動いているわけではありません。
もっとアナログで、グラデーションに満ちた有機的なシステムなのです。
ヨガが提示する答えは、AでもBでもなく、「Aであり、かつBである」という、一見すると不合理な場所にあります。
矛盾を受け入れる器を持つこと。
それが、ヨガ的な知性の始まりです。
スティラとスッカ:強さと柔らかさ
ヨガの根本経典『ヨガ・スートラ』には、アーサナ(ポーズ)の定義として、あまりにも有名な一節があります。
「Sthira Sukham Asanam(スティラ・スッカム・アーサナム)」
訳すと、「アーサナは、安定していて(スティラ)、かつ快適で(スッカ)なければならない」となります。
ここに、すべての答えがあります。
「スティラ」は強さ、安定、覚醒、努力、コントロールを意味します。
「スッカ」は柔軟性、快適さ、リラックス、委ねることを意味します。
この二つは対立するものではなく、同居すべきものです。
想像してみてください。
バイオリンの弦を。
弦は、緩すぎれば(リラックスしすぎれば)音が出ません。これは「怠惰(タマス)」の状態です。
逆に、張りすぎれば(力を入れすぎれば)切れてしまいます。これは「過緊張(ラジャス)」の状態です。
張りすぎず、緩すぎず、適度なテンション(張力)が保たれた時、初めて美しい音色が響きます。
ヨガのアドバイスが矛盾して聞こえるのは、あなたが今、どちらかに偏っているからかもしれません。
ガチガチに力んでいる人には「抜いて」と言いますし、ふにゃふにゃと芯がない人には「入れて」と言います。
指導者は、あなたを「真ん中」に戻そうとしているだけなのです。
「力を抜く」ために「力を入れる」という逆説
解剖学的な視点からも、この矛盾は説明がつきます。
例えば、肩の力を抜くためには、どうすればいいでしょうか。
ただ「肩の力を抜こう」と念じるだけでは、なかなか抜けません。
むしろ、お腹(丹田)や足裏にしっかりと力を入れ、土台を安定させることで、初めて肩の力が「抜ける」のです。
これは逆説的ですが、「必要な場所(コア)に力を入れることで、不要な場所(アウター)の力が抜ける」というメカニズムです。
現代人の多くは、頭や首、肩といった上半身に過剰なエネルギー(気)が上がっています。
思考過多で、常に戦闘モードだからです。
その過剰な緊張を解くためには、下半身に意識的かつ強力なエネルギーを注ぎ込み、気を下ろす(グラウンディング)必要があります。
ですから、「力を入れて」というアドバイスと「力を抜いて」というアドバイスは、実は同じゴール(心身の調和)を目指しているのです。
アクセルとブレーキを同時に踏むような膠着状態ではなく、高速道路をスムーズに走るような、動的なバランスを探ってみてください。
アビャーサ(修習)とヴァイラーギャ(離欲)
この矛盾は、フィジカルな面だけでなく、メンタルやスピリチュアルな実践においても現れます。
ヨガでは「アビャーサ(絶え間ない努力)」と「ヴァイラーギャ(結果への執着を手放すこと)」の両方が必要だと説かれます。
「一生懸命やりなさい。でも、どうなるかは気にするな」
これもまた、現代の成果主義的な価値観からすると、理解しがたい矛盾です。
私たちは「結果を出すために」努力をするよう教育されてきたからです。
しかし、結果(未来)を気にしすぎると、その不安や期待が「過剰ポテンシャル」となり、かえってパフォーマンスを下げてしまいます。
「絶対にポーズを完成させたい」「悟りを開きたい」という欲望(エゴ)は、身体を硬直させ、心を曇らせます。
一方で、「どうでもいいや」と投げやりになるのは、ただの怠慢です。
ここでも中庸が求められます。
「人事を尽くして天命を待つ」という東洋的な境地です。
汗をかき、筋肉を震わせながら、全力でポーズに取り組む(力を入れる)。
しかし、その内側では「できてもできなくても、私は満たされている」という静寂を保つ(力を抜く)。
この、熱い情熱と、冷徹な客観性が同居する状態。
「ゾーン」に入るとは、この矛盾が統合された瞬間のことを指すのかもしれません。
現代社会という荒波を乗りこなすサーフィン
私たちの生きる社会もまた、矛盾に満ちています。
「個性を出せ」と言われながら「空気を読め」と言われる。
「早くしろ」と言われながら「丁寧にやれ」と言われる。
このダブルバインド(二重拘束)の中で、多くの人が心を病んでしまっています。
ヨガのマットの上での練習は、この社会の矛盾を乗りこなすためのシミュレーションです。
「力を入れる」と「力を抜く」の間で、揺れ動きながら、その時々の最適解(ベストバランス)を見つけ出す練習。
それは固定された一点ではなく、常に揺れ動く波の上でバランスを取り続けるサーフィンのようなものです。
ある時は、戦う戦士のように強くある必要があるでしょう。
ある時は、風に揺れる柳のように受け流す必要があるでしょう。
どちらが正解ということはありません。
状況に応じて、硬軟を使い分ける「自在さ」こそが、ヨガが目指す自由(カイヴァリヤ)です。
結論:矛盾の中にこそ、真実がある
もし、先生のアドバイスが矛盾していると感じたら、混乱する代わりに、こう思ってみてください。
「ああ、私は今、振り子の片側に振れていたのだな」と。
そして、その反対側の教えを取り入れることで、振り子を中心に近づけていくチャンスだと捉えてみてください。
完全に脱力したクラゲのようでもなく、ガチガチに固まった岩のようでもない。
しなやかで、芯があり、柔らかいけれど、折れない。
そんな竹のような在り方。
目指すのは、そんな自然体の強さです。
矛盾を恐れないでください。
矛盾こそが、生命の証なのですから。
吸う息と吐く息。緊張と弛緩。活動と休息。
その相反する二つのリズムの間(あわい)に、ヨガという静かな奇跡は起こるのです。
ではまた。


