私たちは、まるで水の中にいながら水を探し求める魚のように、豊かさの海に浸りながら豊かさを探し求めているのかもしれません。息を吸えば、この星の大気が無償で私たちの肺を満たし、一歩踏み出せば、大地がその身をもって私たちを支えてくれる。この根源的な事実に気づくとき、「引き寄せる」という言葉の持つニュアンスが、わずかに、しかし決定的に変化するのです。それは「欠けているものを外部から引っ張ってくる」という不足の地点から始まる営みではなく、「すでに内包されているものを現実に映し出す」という充足から始まるプロセスへと変容します。
古代インドの叡智、ヴェーダーンタ哲学には「タット・トヴァム・アシ(Tat Tvam Asi)」という深遠な言葉があります。「あなたは、すでにそれである」と訳されるこの一節は、あなたが探し求めている神性、完全性、そして豊かさは、すでにあなた自身の中に偏在しているという真理を指し示しています。これはヨガの伝統における「サントーシャ(知足)」の教えの核心部分と響き合います。「足るを知る」とは、欲望を抑制する禁欲的な態度を意味するのではなく、今この瞬間に、ありのままの自分と世界が完全であり、すべてが必要なだけ与えられているという深遠な真実に気づく、意識の在り方のことなのです。
この視点に立つと、私たちの日常的な「ないもの探し」がいかに奇妙な習慣であるかに気づかされます。私たちは、まだ手に入れていない成功、まだ訪れていない理想のパートナー、まだ足りない銀行口座の残高に意識を向け、その欠乏感をエネルギー源として行動しようとします。しかし、それは車輪の片方が欠けた車で前に進もうとするようなもので、多大なエネルギーを消耗する割には、常にガタガタとした不安定さと不安感を伴います。
ヨガの道は、まずこの「すでに与えられている」という基盤の上に、どっしりと立つ稽古から始まります。それは、山のポーズ(タダーサナ)で足の裏から地球の支持を感じること。それは、深く呼吸をするたびに、宇宙の生命エネルギー(プラーナ)が分け隔てなく自分に流れ込んでくるのを感じること。それは、太陽の光が善人も悪人も、富める者も貧しい者も等しく照らすように、存在そのものが無条件に祝福されているという事実を体感することです。
少しだけ現代的な言葉を借りるなら、量子物理学の世界観は、この古代の叡智に新たな光を当ててくれます。そこでは、宇宙は無限の可能性が折り畳まれた「場(フィールド)」として記述されます。あらゆる現実は、観測されるまでは可能性の波として存在している。つまり、あなたが望む豊かさや喜びの可能性は、まだ顕現していないだけで、すでにこの宇宙のポテンシャルとして「与えられている」のです。私たちの意識、すなわち「知る」という行為が、その無限の可能性の中から一つの現実を浮かび上がらせる触媒となります。
「すべてはすでに与えられている」と知ることは、努力を放棄することではありません。むしろ、それは焦りや欠乏感からくる無駄な力みを手放し、本当に必要な行動へとエネルギーを集中させるための、最も賢明な戦略なのです。それは、大いなる流れを信頼し、自分という存在がその流れの一部として、完璧なタイミングですべてを受け取ることを許可する「イーシュワラ・プラニダーナ(全託)」の境地へと私たちを導きます。
今日の実践として、静かに座り、あなたが「当たり前」だと思っているものを三つ、心に浮かべてみてください。それは、今している呼吸かもしれません。窓から差し込む光かもしれません。あるいは、この文章を読むことができる視力かもしれません。その一つひとつが、誰かが与えてくれたわけでも、あなたが努力して稼いだわけでもない、ただ「在る」という奇跡的な贈り物であることに気づいてみましょう。その気づきこそが、豊かさの海にいることを思い出す、最初の一滴なのです。


