私たちはなぜ、苦しむのでしょうか。ヨガの根本経典である『ヨーガ・スートラ』は、その根源を「クレーシャ(kleśa)」、すなわち五つの煩悩にあると説きます。その中でも、私たちの日常に最も深く、そして巧妙に忍び寄ってくるのが「ラーガ(rāga)」、すなわち「愛着」や「執着」と呼ばれる心の働きです。
ラーガとは、一度経験した快楽や喜びを「もう一度味わいたい」と渇望し、それを所有し続けようとする心の動きです。それは、愛する人、快適な生活、社会的地位、若さや健康、あるいは特定の考え方や信念など、あらゆる対象に向けられます。執着すること自体が、すぐに苦しみとなるわけではありません。むしろ、それは人生の喜びやモチベーションの源泉にもなり得ます。問題は、仏教が説く「諸行無常」の真理、すなわち「この世のあらゆるものは絶えず移り変わり、永遠に同じ状態に留まるものはない」という宇宙の根本法則に、私たちが気づかない(あるいは、気づきたくない)時に生じます。
移ろいゆくものを、永遠に所有しようとすること。この、本質的に不可能な試みこそが、ラーガを苦しみの種に変えるのです。愛する人はいつか去り、財産は失われ、身体は老い、考え方も変わっていく。その変化という自然な流れに抵抗し、「失いたくない」と対象に強くしがみつけばしがみつくほど、私たちは不安と苦悩の渦に巻き込まれていきます。
ここで、さらに深く掘り下げてみましょう。なぜ、私たちはそれほどまでに「失うこと」を恐れるのでしょうか。『ヨーガ・スートラ』は、ラーガのさらに根深い層に、もう一つのクレーシャ、「アビニヴェーシャ(abhiniveśa)」が存在することを明らかにします。これは「生命への執着」や「死への恐怖」と訳され、すべての生物に共通する最も根源的な本能です。
しかし、このアビニヴェーシャは、単に生物学的な死への恐怖だけを意味しません。それは、「私」という存在が消滅することへの、もっと広範で哲学的な恐怖を内包しています。私たちは無意識のうちに、自分が執着している対象(人、物、地位、アイデンティティ)と自分自身を同一化しています。「私は、〇〇社の部長である」「私は、この美しい家の所有者である」「私は、この人から愛されている私である」。この自己規定が強固であればあるほど、その対象を失うことは、単なる喪失ではなく、「私」という存在の一部が、あるいはそのすべてが死んでしまうかのような、耐え難い恐怖として感じられるのです。
つまり、執着の正体とは、突き詰めれば「対象を失うことへの恐れ」であり、その核には「自己という存在が脅かされることへの根源的な恐怖(アビニヴェーシャ)」が横たわっています。そして、この恐怖を生み出している大元こそが、最初のクレーシャである「アヴィディヤー(avidyā)」、すなわち「無明」です。アヴィディヤーとは、「真実を知らないこと」。何についての無明か。それは、「本当の自分とは何か」についての無明です。
ヨガの哲学は、私たちに教えます。あなたの本質(真我、プルシャ)は、あなたが所有しているものでも、あなたの社会的役割でも、あなたの肉体ですらもない、と。あなたの本質は、それらすべてを経験している、純粋で、永遠で、傷つくことのない「観照者(かんしょうしゃ)」そのものである、と。この真理を体感として理解した時、私たちは、何かを所有することで自分の価値を証明する必要も、何かを失うことで自分の存在が脅かされると恐れる必要もなくなります。
執着を手放すための実践は、まず、自分が何に執着しているのかを正直に見つめることから始まります。そして、「もし、これを失ったら、私は何を失うと怖れているのだろう?」と、深く自問してみることです。その恐れの感情を否定せず、ただ感じてあげてください。その恐れこそが、あなたが自分自身だと思い込んでいる、偽りのアイデンティティの在り処を教えてくれるからです。
執着とは、本当の自分を忘れてしまった心が、安心感を求めて外側の世界に伸ばした、迷子の手のようなものです。その手を、ゆっくりと自分自身の内側へと引き戻し、あなたの内側には決して失われることのない安らぎの源泉があることを思い出させてあげること。それが、執着という苦しみからの、真の解放への道なのです。


