五つのクレーシャ(煩悩)を巡る私たちの旅は、ついにその源流、あらゆる苦しみが流れ込む静かで巨大な本流へとたどり着きます。それが、五番目にして最も根源的なクレーシャ、「アビニヴェーシャ(Abhiniveśa)」です。一般に「生命への執着」あるいは「死への恐怖」と訳されるこの力は、私たちの存在の基底部で絶えず脈打っています。ヨガの聖賢パタンジャリが「賢者においてすら流れ続けている」と記したように、それは生物としての根源的な生存本能と分かちがたく結びついており、最も抗いがたい力と言えるでしょう。
アビニヴェーシャの射程は、単に生物学的な「死」への怖れに留まりません。むしろそれは、「変化への抵抗」「未知への怖れ」「現状維持へのしがみつき」といった、私たちのあらゆる営みの背後に潜む、巨大な重力場のようなものです。アヴィディヤー(無明)という大地から芽生えたアスミター(我執)、ラーガ(愛着)、ドヴェーシャ(嫌悪)という支流は、ことごとくこのアビニヴェーシャという大河へと合流していくのです。「私」という物語(アスミター)が終わりを迎えることへの恐怖。愛するものを失う(ラーガ)ことへの恐怖。不快な変化(ドヴェーシャ)に飲み込まれることへの恐怖。そのすべては、このアビニヴェーシャという名の、存在そのものへの執着の異なる現れに他なりません。
この根源的な恐怖が、私たちの人生の舵をどれほど重くしていることでしょう。
「本当の望みがある。しかし、今の安定を失うのが怖い」
「この関係はもう役割を終えた。しかし、独りになるのが怖い」
「失敗という『死』が怖くて、新しい挑戦という『生』に踏み出せない」
これらはすべて、アビニヴェーシャの囁きに耳を貸し、その支配下にある状態です。私たちは、未知の可能性に満ちた大海原へ漕ぎ出すよりも、たとえそれが窮屈な檻であっても、慣れ親しんだ港に留まることを選んでしまいます。なぜなら、あらゆる「変化」は、常に「小さな死」を伴うからです。昨日までの自分の一部が死に、新しい自分が生まれ変わる。その変容のプロセスそのものを、私たちの本能は根源的に怖れるのです。
さて、この視点から「引き寄せの法則」を眺めると、その実践を阻む最大の障壁が、まさにこのアビニヴェーシャであることが見えてきます。私たちの意識が「人生を変えたい」と願う一方で、無意識の深層ではアビニヴェーシャが「変化は危険だ! 現状を死守せよ!」と警報を鳴らし続けている。この内なる分裂が、創造のエネルギーを打ち消し合い、現実を現状維持へと強力に引き戻します。「失うことへの怖れ」と、豊かさという「受け取ること」は、光と闇が同じ場所を同時に占めることがないように、私たちの内なる宇宙で共存することはできないのです。
では、賢者ですら抗いがたいという、この根源的な恐怖とどう向き合えばよいのでしょうか。ヨガの叡智が示す道は、怖れから目を背けることでも、力ずくで克服することでもありません。むしろ、その逆説的な道、すなわち「死を、静かに直視する」ことへと私たちをいざないます。古代の哲学者が遺した「メメント・モリ(死を想え)」という言葉は、まさにこの実践を指しています。
終わりを意識するからこそ、有限である「今」という時間が、かけがえのない、ダイヤモンドのような輝きを放ち始めるのです。私たちは、まるで永遠に生きるかのように時間を浪費し、本当に大切なことを後回しにしがちではないでしょうか。しかし、「もし、自分の命があと一日だとしたら?」この鋭い問いは、私たちを些末な悩みや怖れの霧から引き離し、本当に価値あることへと意識の光を集中させてくれます。
ヨガの実践そのものが、この「死と再生」のサイクルを、頭ではなく身体で学ぶための、比類なき稽古場となります。一つひとつのアーサナにおいて、私たちは快適な領域という「小さな死」を迎え、新たな身体感覚という「小さな生」を体験します。そして、練習の最後に訪れるシャヴァーサナ(屍のポーズ)は、その象徴的なレッスンです。身体のあらゆる力を抜き、呼吸すら自然の手に委ね、自らの意志で、一度「死んでみる」稽古。そこで私たちは、コントロールという最後の砦を手放し、大いなる流れに身を委ねるという、完全なる降伏を学びます。そして、シャヴァーサナからゆっくりと起き上がる時、世界は生まれ変わったかのような新鮮さで、私たちを祝福してくれるのです。
アビニヴェーシャを乗り越える究極の処方箋は、ヨガの教えの中心にある「私はこの身体や心ではない」という真理を、身体で「知る」ことにあります。私たちの本質は、生と死を繰り返す身体(プラクリティ)ではなく、それを静かに観照する不変の意識(プルシャ)である、という理解です。この視座に立つ時、「死」は絶対的な終わりではなく、一つの形態から別の形態への移行、壮大な宇宙のサイクルのワンシーンに過ぎない、と捉えることが可能になります。
しかし、このような哲学的理解に至らずとも、私たちが今すぐに実践できることがあります。それは、「今、この瞬間を、完全に生きる」ということです。アビニヴェーシャは、まだ来ぬ未来というフィクションの中にしか棲めない亡霊です。思考が過去や未来を彷徨っている時、私たちは厳密には「生きて」いません。しかし、意識の投光器で「今、ここ」の呼吸の感覚、足の裏と大地の接触、風が肌を撫でる感触を照らし出す時、怖れが入り込む余地はなくなるのです。
怖れと共に生きるのではなく、怖れを羅針盤として生きる。あなたが最も怖れていることの先にこそ、あなたの最も大きな成長が待っているのです。アビニヴェーシャの鎖を断ち切る鍵は、未来の死を憂うことではありません。今この一呼吸のなかに、永遠の生を見出すこと。その静かな歓びのなかにこそ、すべての答えは隠されているのです。


