私たちの生きる現代社会は、どこか「悲しみ」という感情を性急に乗り越えることを強いる空気があります。失恋や死別、あるいは目標の挫折といった深い悲しみに暮れている人に対して、周囲は「早く元気を出して」「いつまでもくよくよしないで」といった言葉で励まそうとします。それは善意からくる言葉であるにせよ、結果として、私たちが悲しみを十分に体験し、消化するプロセスを妨げてしまうことがあります。感じ切ることのできなかった悲しみは、決して消えてなくなるわけではありません。それは心の奥底に、冷たく重い澱のように沈殿し、無意識のうちに私たちの生命力を奪い、未来への一歩をためらわせる足枷となるのです。
ヨガの智慧は、この「感じ切る」という行為の重要性を、私たちに教えてくれます。それは、悲しみという感情の大きな波に抵抗するのをやめ、判断や分析を加えることなく、ただその感覚が自身の内側を通り過ぎていくのを、静かに、そして完全に許可することです。この態度は、ヨガの練習の最後に行うシャヴァーサナ(屍のポーズ)の精神性と深く共鳴します。シャヴァーサナにおいて、私たちは身体のすべての力を抜き、重力に完全に身を委ねます。それと同じように、悲しみの波が来た時には、それに抗い、泳ぎ切ろうともがくのではなく、ただその流れに身体を預け、浮かんでいることを選択するのです。
悲しみとは、出口の見えない暗い洞窟ではなく、必ず出口のあるトンネルのようなものだと考えてみてください。このトンネルを通り抜けるための唯一の方法は、勇気を出してその暗闇の中へと足を踏み入れ、一歩一歩進んでいくことです。途中で怖くなって引き返したり、壁を叩いて怒りをぶつけたり、あるいは近道をしようと焦ったりしても、決して出口にはたどり着けません。トンネルの中では、時間の流れも、外の世界とは異なって感じられるでしょう。必要なのは、ただ、今自分がトンネルの中にいるという事実を受け入れ、暗闇に目が慣れるのを待ち、自分の足元の感覚を信じて進み続けることなのです。
この「喪の作業(グリーフワーク)」とも呼ばれるプロセスは、かつては共同体の営みの中で、時間をかけて丁寧に行われてきました。しかし、個人化が進んだ現代において、私たちはしばしば、この神聖なプロセスを一人で、しかも短時間で終わらせることを余儀なくされています。だからこそ、意識的に、悲しみと向き合うための安全な時間と空間を、自分自身に与えてあげることが不可欠となります。
それは、一人きりになれる部屋で、悲しい気持ちを呼び起こす音楽を聴くことかもしれません。あるいは、信頼できる友人に、ただ黙って話を聞いてもらうことかもしれません。日記に、誰にも見せることのない、ありのままの感情を書きなぐるのもよいでしょう。そして何より大切なのは、涙を我慢しないことです。涙は、魂が自らを浄化するために流す聖なる水です。流すことを許された涙は、心の澱を洗い流し、硬く閉ざされた感情の扉を、内側からそっと開いてくれるのです。
悲しみを最後まで感じ切ることは、決して弱さではありません。それは、自らの心の最も深い部分と誠実に向き合い、喪失という厳しい現実を、身体レベルで受け入れていく、気高い勇気の現れです。この痛みを伴う通過儀礼をくぐり抜けた時、あなたは、以前よりも少しだけ深く、少しだけ優しく、そして、揺るぎない静かな強さを内に宿した、新しい自分自身に出会うことになるでしょう。悲しみの底には、必ず再生の光が差し込んでいるのですから。


