ヨガの叡智を巡る旅の入り口には、古くから一枚の大きな扉が設けられています。その扉には「アヒンサー(Ahiṃsā)」、すなわち「非暴力」という名が刻まれております。これはヨガの八支則における最初の段階「ヤマ(禁戒)」、つまり私たちが世界や他者と関わる上での心構えの、そのまた一番初めに置かれた、最も根源的な教えです。
なぜ、数ある教えの中で「非暴力」が筆頭に挙げられるのでしょうか。それは、あらゆる創造的な実践や霊的な探求が、まず「傷つけない」という土台の上でしか成り立たないからです。荒れ果て、傷だらけの土地に、どんなに素晴らしい種を蒔いても芽吹くことがないように、私たちの心と身体が暴力によって損なわれていては、いかなる豊かさも、平安も、引き寄せることは叶いません。
「非暴力」と聞くと、私たちはすぐに他者への物理的な攻撃や、戦争といった大きな問題を思い浮かべるかもしれません。もちろん、それらもアヒンサーが戒める重要な対象です。インド独立の父、マハトマ・ガンジーが非暴力不服従運動によって国家を動かしたように、アヒンサーは社会を変えるほどの力強い思想でもあります。しかし、ヨガ哲学が私たちに促すのは、その矢印をまず、最も身近な存在、すなわち「自分自身」へと向けることです。
私たちは驚くほど無自覚に、日常的に自分自身を傷つけています。夜更かしをして睡眠時間を削ることは、自らの回復力を奪う暴力ではないでしょうか。身体の声に耳を傾けず、無理なダイエットや過度なトレーニングで自分を追い詰めるのは、この聖なる器に対する敬意を欠いた行為と言えるでしょう。ジャンクフードで胃を満たす時、私たちは内なる生命力を軽んじてはいないでしょうか。
かのヨーガ・スートラを編纂した聖者パタンジャリは、アーサナ(ポーズ)を「スティラ・スカム・アーサナム(Sthira Sukham Asanam)」、つまり「快適で、安定した坐法」であると定義しました。これは、アーサナの実践そのものがアヒンサーの体現でなければならないことを示唆しています。隣の人と比べて「もっと曲げなければ」と焦ったり、痛みを我慢してポーズを深めようとしたりするのは、ヨガの精神から最も遠い行為なのです。それはもはやヨガではなく、自己への暴力に他なりません。
この自己への暴力という習慣は、私たちの意識の根深いところに「私は大切に扱われるに値しない」という信念を刻み込みます。この無意識のサインこそが、私たちの波動、すなわち世界へと発信するエネルギーの質を決定づけてしまうのです。自分をぞんざいに扱えば、世界もまたあなたをぞんざいに扱うでしょう。これは、スピリチュアルな法則である以前に、私たちの身体感覚がもたらす極めてリアルな現実認識の変容です。
引き寄せの法則の根幹が、自らの「在り方」が現実を創造する、というものであるならば、その出発点は、自分自身をいかに慈しみ、敬意をもって扱うかにかかっています。自分という存在を、かけがえのない聖域として扱うこと。呼吸を深くし、身体の感覚に耳を澄まし、その声に応えること。これが、自己へのアヒンサーの第一歩です。
まずは、今日の終わりに、一日頑張った自分自身の身体に「ありがとう」と伝えてみませんか。その優しい眼差しこそが、荒れた土地を耕し、豊かな実りを育むための、最初の、そして最も大切な一滴の水となるのですから。


