もし、あなたが美しい庭園を造っているとしたら、そこに咲く華やかなバラや、甘い香りを放つジャスミンだけを愛し、土の中で黙々と働くミミズや、落ち葉を分解する目に見えない微生物たちを「汚い」「不必要だ」と排除しようとするでしょうか。おそらく、賢明な庭師であるあなたは、そのどちらもが庭園という生態系にとって不可欠であり、それぞれの役割において等しく神聖な存在であることを知っているはずです。
私たちの心の庭も、これと全く同じです。喜び、愛、平和といった、一般的に「ポジティブ」と呼ばれる感情は、見目麗しい花々に例えられるかもしれません。しかし、悲しみ、怒り、恐れ、嫉妬といった「ネガティブ」と見なされがちな感情たちもまた、私たちの心の生態系を豊かにし、魂の成長を促すために欠かせない、神聖な働き手なのです。
この「すべての感情は神聖である」という視座は、物事の善悪を判断せず、ありのままの世界を肯定する、タントラ哲学の根幹をなす思想です。タントラの世界観では、この宇宙に現れる現象のすべては、根源的な一つの意識(シヴァ)が、そのエネルギー(シャクティ)を通して戯れる、神聖な遊戯(リーラ)であるとされます。光も闇も、喜びも悲しみも、すべてはその神聖なエネルギーの異なる現れにすぎず、そこに本質的な優劣はありません。
この視点に立つとき、私たちは感情に対するこれまでの態度を、根本的に変えることを迫られます。私たちはこれまで、感情を審査し、格付けする裁判官のように振る舞ってきました。「喜びよ、汝は善である。もっと来なさい」「悲しみよ、汝は悪である。即刻立ち去りなさい」。しかし、このジャッジメントこそが、私たち自身の内なる分裂を生み出し、心の平和を乱す元凶なのです。抑圧された感情は、決して消え去ることはありません。それは、意識の地下室(シャドウ)に追いやられ、そこで力を蓄え、いつか歪んだ形で私たちの人生に影響を及ぼそうと機会をうかがっています。
「すべての感情は神聖である」というマントラは、この内なる裁判官を解任し、代わりに、訪れるすべての感情を、敬意をもって迎え入れる「賢明な主人」になることを私たちに促します。喜びがやって来たら、「ようこそ。あなたのおかげで、人生は輝きます」と、その祝福を存分に味わう。そして、悲しみが扉を叩いたら、「ようこそ、悲しみさん。あなたがここにいるということは、私が何か大切なものを失ったということですね。その痛みを、共に感じさせてください」と、静かに迎え入れる。怒りが嵐のように訪れたら、「ようこそ、怒りよ。あなたのその熱いエネルギーは、私が守りたいと願う大切な価値観が何かを教えてくれるのですね」と、そのメッセージに耳を澄ます。
このように、すべての感情を、あなたに何か大切なことを教えに来てくれた「神聖なメッセンジャー」として扱うのです。感情は、もはや対処すべき「問題」ではなく、理解し、学ぶべき「智慧の源」となります。この受容的な態度は、ヨガのアーサナの実践と全く同じ構造をしています。私たちは、身体の硬い部分や弱い部分を「ダメな部分」として裁くのではなく、そこにこそ注意深い呼吸を送り込み、その部分の声に耳を傾けようとします。それと同じように、心の硬い部分、痛む部分にも、受容という優しい呼吸を送り込むのです。
引き寄せの法則との関係で言えば、この態度は究極の「自己受容」に繋がります。あなたが自分の内にある光も闇も、すべてを等しく愛し、受け入れるとき、あなたは「ありのままの自分で完全である」という、最もパワフルな波動を放ち始めます。この自己肯定感の欠如こそが、多くの人が豊かさや愛を受け取れない根源的なブロックとなっています。「こんな自分はダメだ」と感じている限り、宇宙からの贈り物を「私なんかが受け取る資格はない」と無意識に拒絶してしまうのです。自分のすべてを神聖なものとして受け入れたとき、初めてあなたは、宇宙からの無限の祝福を、両手を広げて受け取ることができるようになります。
今日、あなたの心の扉を叩く感情は、何でしょうか。それがどんな感情であれ、ジャッジするのをやめて、ただ、その存在を認めてあげてください。そして、心の中でこう囁きかけるのです。「あなたもまた、私の一部。ここにいてくれて、ありがとう」。その瞬間、あなたの内なる庭園では、すべての存在が調和し、静かで力強い生命のシンフォニーが鳴り響き始めるでしょう。


