ヨガという言葉を聞いたとき、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。多くの人は、体が柔らかい人が難解なポーズをとっている姿を想像するかもしれません。
しかし、ヨガの歴史における根本的な経典『ヨーガ・スートラ』を開くと、そこにはまったく異なる定義が記されています。経典の冒頭、第1章第2節には「ヨーガハ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハ」という一節が存在するのです。
これは日本語に訳すと、「ヨガとは心の作用を止滅することである」という意味になります。実は、ヨガの本質はこの一言に尽きると言っても過言ではありません。そして、この「心の作用を止滅する」という言葉を現代の表現に置き換えるならば、それは「脳内の自動思考を止めること」に他ならないのです。
もくじ
心の湖の波紋を静める:チッタ・ヴリッティ・ニローダハの真意
今から二千年以上前に編纂された『ヨーガ・スートラ』の著者パタンジャリは、私たちの心の仕組みを非常にシンプルに見抜いていました。
ここで言う「チッタ(Chitta)」とは、単なる思考だけでなく、記憶やエゴ、無意識の領域までを含めた「心全体」の領域を指します。そして「ヴリッティ(Vritti)」とは、そのチッタに生じる「さざ波」や「渦」のような動きのことです。最後の「ニローダ(Nirodha)」は、それらの動きをコントロールし、静かに「止滅(しめつ)させる」ことを意味しています。
パタンジャリは、私たちの苦しみや迷いの原因は、この心の湖に絶えず生じるさざ波にあると考えました。水面が激しく波立っていると、底にある美しい真実を映し出すことができません。ヨガとは、ポーズの美しさを競うスポーツではなく、心の波を完全に鎮め、平らな鏡のような状態に戻すための実践なのです。
現代人を疲弊させる「自動思考」という脳内の雑音
では、古代の賢者が指摘した「心の作用」とは、私たちの日常生活において具体的に何を指しているのでしょうか。それは、私たちの頭の中で一日中鳴り響いている「自動思考」に他なりません。
自動思考とは、自分が「考えよう」と意図していないにもかかわらず、脳内で勝手に湧き上がってくるおしゃべりのことです。「明日の仕事の準備はどうしよう」「あの時、なぜあんなことを言ってしまったのだろう」といった、過去の後悔や未来の不安がこれに該当するのです。
最新の脳科学では、この状態を脳の「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼んで研究が進められています。何もせずぼんやりしているときでも、脳はこのネットワークを活性化させ、膨大なエネルギーを消費しているのです。
実は、脳が消費する総エネルギーの60%から80%が、この自動運転のアイドリング状態に使われていることがわかってきました。私たちが「ただ生きているだけで疲れる」と感じるのは、肉体が疲弊しているからではなく、脳が自動思考という雑音によって休むことなく酷使されているからです。ヨガが目指す「心の作用の止滅」とは、このアイドリング状態のエンジンをオフにし、脳と心を完全に休息させることだと言えるでしょう。
「考えている私」という錯覚を解き明かす
私たちは普段、頭の中に浮かぶ思考を「自分自身」であると同一視して生きています。「私は不安だ」「私は怒っている」と感じるとき、私たちは思考や感情そのものになりきってしまっているのです。
ヨガの哲学では、この思考と自己の同一視を「アスミター(自我意識・エゴ)」と呼び、苦しみの根源のひとつとして位置づけました。しかし、よく観察してみてください。頭の中で自動的に湧き上がる思考は、本当にあなた自身なのでしょうか。
もしそうであるなら、あなたは自分の意志でその思考を完璧にコントロールできなければおかしいはずです。「今から5分間、何も考えないでください」と言われても、頭の中に勝手におしゃべりが始まってしまうのが私たちの現実と言えます。
つまり、自動思考とは「心という器官が勝手に分泌している分泌物」のようなものに過ぎないのです。ヨガの実践において、私たちは思考そのものではなく、その思考が湧き上がっては消えていく様子をじっと見つめている「プルシャ(純粋観照者・観察者)」の存在に気づくことになります。仏教における「無心(むしん)」や「無我(むが)」の教えも、この「考えている私」という強固な錯覚から離れることを促している点で共通していると言えるでしょう。
思考を力づくで止めようとしない引き算の美学
自動思考が止まった状態がヨガのゴールであるならば、私たちは力ずくで思考を抑え込めば良いのでしょうか。実は、ここが最も誤解されやすいポイントと言わざるを得ません。
「考えるのをやめよう」と強く念じること自体が、すでに新しい心の揺らぎ(ヴリッティ)を生み出しているからです。暴れる馬を無理やり力で押さえつけようとすれば、馬はさらに暴れ出すのと同じでしょう。
本当の意味で心の作用を止滅させるためには、ただ「引き算」に徹することが効果的です。私たちは日々の生活の中で、あまりにも多くの刺激や「記号」を自ら消費し、脳に栄養を与えすぎています。あれこれと新しいアイデアを足したり、知識を詰め込んだりするのを一度やめてみるのが良いでしょう。
EngawaYogaでは、そのための具体的なアプローチとして、身体の強張りを「ユルユル」に解きほぐすことから始めます。身体が緊張していると脳は休まらず、自動思考のアイドリングはいつまでも止まらないからです。
肉体が深く緩んだ状態で、ただ静かに座る「SIQAN(シカン)」というシンプルな瞑想を実践してみてください。SIQANは、湧き上がる自動思考を敵視せず、ただ「あ、また考えているな」と眺め、放置するだけの極めてシンプルな瞑想メソッドと言えます。放置された思考は、エネルギーを失って自然と静まっていくことに気づくでしょう。
沈黙の先にある本質的な豊かさとサントーシャ
自動思考という雑音が完全にやんだとき、そこには寂しさや虚無感が広がるわけではありません。むしろ、言葉では表現しきれないほどの深い静寂と、確かな充足感がそこに宿るのです。
この内なる充足感こそが、ヨガが重んじる「サントーシャ(足るを知る)」の真髄を指す言葉です。私たちは普段、外側の何かを得ることで心を満たしようと慌ただしく奔走しがちと言えます。
しかし、自動思考が止まった瞬間に、私たちはすでに自分の中に必要なものはすべて存在していたのだという事実に直面するのです。お洒落な服も、SNSの「いいね」も、贅沢な食事も、脳を満足させるための記号に過ぎなかったと理解できるようになります。
都会の喧騒の中に身を置きながらも、頭の中だけは完全に静まり返ったクリアな空間を保つこと。この「静寂の所有」こそが、私たちが提案する都会での心地よい生き方です。余計なことをやめ、頭の中の自動運転を一度オフにして、本来の自分へと帰る時間を創り出してみましょう。心静かに座るその数分間が、あなたの人生に計り知れない軽やかさをもたらしてくれると信じています。




