ヨガスタジオを運営していると、組織の規模は時期によって変化します。 私一人で行うこともあれば、複数のメンバーと一緒に活動することもあるのです。
こうした集団での活動において、私は報酬やエネルギーの「分配」というテーマをとても大切に考えてきました。
なぜなら、メンバーの細かな活動のすべてが、目に見えない「贈与」となって共同体全体に貢献しているからです。
しかし、誰がどの仕事をしたからこの利益が得られたのかという因果関係を、厳密に可視化することはできません。
わかりやすい成果だけで効果を測定するのは、ほぼ不可能なのです。
事故やトラブルの防止といった局面を思い浮かべてみてください。
事前に危険を察知してアクシデントを未然に防いだ功績は、トラブルそのものが起きないため、誰の目にも留まりません。
一般的な人事評価では、何もない平和な状態を作った人は、なぜか評価されにくい傾向にあります。
もし評価されないのであれば、誰も未然防止のような地道な行動をしなくなってしまうでしょう。
目立って得をする仕事にばかり関心が向かうのは、人間として自然な心理かもしれません。
私はこうした懸念があったからこそ、全体のバランスを考慮した分配を試みてきました。
それなら報酬を全員に均等に分ければ解決するのかというと、決してそうではありません。
今度は、どれほど優れた仕事をしても周囲と同じ評価になるため、自発的に動く意欲が薄れてしまいます。
「頑張らなくても同じなら、何もしない方が楽だ」と考える人が出てくるのは当然です。
これは、成果に対する報酬と、全体への分配をどのように配分するかという、非常に繊細な問題へと行き着きます。
ヨガの根本的な教えに「サントーシャ」という知恵があります。
これは「知足(ちそく)」と訳され、今ここにある現状に満足し、自分自身の内なる充足感に気づくことを意味する言葉です。
共同体の運営において、私たちは何もしないで満足する怠惰と、他者に過剰な成果を要求する執着の間で、中庸のバランスを見出さなければなりません。
現実的なお話をすると、これまでの私の試みでは持ち出しが多くなりすぎてしまい、かえって健全な循環が機能しない事態も起こりました。
分配を行うことで、メンバーの精神的な成長を促すという設計が、うまく噛み合わなかったのです。
とにかく惜しみなく与え、過剰なほどに相手をサポートすれば良いと考えていた時期がありました。 ですが、今振り返ると、その姿勢は少々浅はかだったと感じています。
東洋思想の歴史を紐解くと、仏教やヒンドゥー教の古い伝統の中に「ダナ」という概念が存在します。
これは日本語で「布施(ふせ)」と訳されるもので、見返りを求めずに自らの所有物や知恵を分け与える修行の一種です。
しかし同時に、ヨガには「アパリグラハ」という大切な規律も存在します。
アパリグラハとは「不貪(ふとん)」を意味し、必要以上のものを所有せず、執着を手放す生き方を指す言葉です。
この受け取る側の自立心が育っていない状態で、一方的に与えすぎてしまうと、相手の中に勘違いが生まれてしまいます。
サポートされることが当たり前になり、自分の力だけでそのスキルを身につけたのだと誤認する人が現れるのです。
人はなぜ、他者の支えを忘れて傲慢になってしまうのでしょうか。
この心理的なメカニズムは、現代の精神世界で語られる「エゴ」や「自動思考」という言葉で明快に説明できます。
エゴを「所有や評価によって自分という存在を特別なものと定義しようとする、自我の働き」として捉えられます。
エゴは自動思考であり、自動思考とは、頭の中で絶え間なく繰り返されるおしゃべりのことであり、自分と他者を切り離して「私は正しい、相手が間違っている」という物語を作り出す性質を持っています。
手厚すぎるサポートを受けると、この自動思考が都合の良いストーリーを紡ぎ出します。
「私の努力があったからこそ、これだけの成果が出たのだ」という妄想に、無意識のうちに支配されてしまうのです。
これこそが、ヨガのクラスにおいて「生徒を不自然に褒めちぎる講師は危険だ」と言われる根本的な理由に他なりません。
講師が生徒の承認欲求を過剰に満たすと、生徒の自動思考は肥大化し、結果として内観の力を奪うことになります。
これでは、心身を解放するためのヨガが、むしろエゴを強固にする道具に成り下がってしまうでしょう。
本来の東洋思想やヨガ、そして無駄を排するミニマリズムの生き方とは、増やすことではなく「削ぎ落とすこと」に本質があります。
都会の真ん中で生きる私たちが覚醒を目指すために、EngawaYogaでは独自のメソッドを提唱してきました。
身体をダイナミックに動かして解放する「ENQAN(エンカン)」、深く自分の内面を見つめる「JIQAN(ジカン)」、そして温泉に浸かるように体内の余分な力を完全に抜く瞑想の「SIQAN(シカン)」です。
これらはすべて、頭の中に渦巻く余計なストーリーを止め、ただ「今ここ」の身体感覚に寛ぐためのアプローチに他なりません。
集団の運営においても、同じことが言えます。
全体での利益の共有は素晴らしい試みですが、そこに依存を生み出す過剰なサポートが介在すれば、人の本質的な自立は損なわれます。
お互いに執着を手放し、まずは自分自身が「足るを知る」という静寂の中に身を置くこと。
小さな成果であっても、そこに感謝を見出しながら、淡々と自分のやるべきことに取り組むシンプルなあり方が求められているのかもしれません。




