こんにちは。
ボードリヤールという社会学者さんがいらっしゃいます。
有名な方ではありますが、ヨガをやっていると話題にあがることは先ずはないです。
ジャンルが異なるからでしょう。
現代社会は、ジャン・ボードリヤールが喝破したように、もはや現実と虚構が区別できない「シミュラークル」の世界と化しています。
シミュラークルとは
シミュラークル(Simulacre)とは、本来存在するものの模倣や複製、あるいはその模倣がさらに模倣されたもの、といった複雑な概念です。 単なる「偽物」や「模造品」という意味だけでなく、現実と虚構の境界が曖昧になり、模倣物がオリジナルよりも現実味を帯びてしまう状態、さらにはオリジナル自体が存在しなかったとしても、模倣物によって現実が構築されてしまう状態までも含んでいます。
この概念は、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールによって体系的に論じられました。 ボードリヤールは、現代社会において、メディアや情報技術の発展によって、シミュラークルが氾濫し、現実とシミュラークルの区別が困難になっていると指摘しました。
シミュラークルは「偽物」という意味だけじゃなくて、「本物と偽物の区別が曖昧になっている状態」という意味もあります。
シミュラークルが氾濫することにより、モノは本来の用途や価値を超え、記号と化し、消費される対象と化しているということです。
シミュラークルの例えとして、遊園地の「お化け屋敷」が考えられます。本当は怖いものなんて何もないのに、暗闇や音、仕掛けで「怖い」雰囲気を作り出しており、その「怖い」雰囲気自体がお化け屋敷の本質になっていて、本当の「怖い」とは違うけど、みんなそれを「怖い」と感じている。
他にも、ゲームの中のキャラクターや、映画の登場人物を考えてみてもわかります。 彼らは本当は存在しないのに、まるで本物の人間のように感じたり、感情移入したりします。 その感情移入そのものが、シミュラークルと言えます。 つまり、本当は存在しないものが、あたかも本物のように感じられる状態、それがシミュラークルです。(ディズニーランドもシミュラークル)
さらに、インスタグラムなどのSNSで、完璧な写真や動画をアップしている人がいますが、これもまた感の良い人はわかるとおもいます。 あれは、本当の自分とは少し違う、理想の自分を演出していると言え、 その演出された「自分」自体も、シミュラークルの一種と言えます。 本物と偽物の区別がつかなくなっている状態です。
情報過多は、意味の喪失を招き、私たちは記号の渦に翻弄され続けています。
そして、ヨガまでもが、このシミュラークルな消費社会に組み込まれつつあるのです。
このブログのトップの写真も用途や価値を超えて、記号として消費される。すなわち「このようなポーズをしている人はすごい」というだけであり、ヨガに対しての具体的な体験や経験はそっちのけで、消費されていくのです。(SNSはそれだけになっている)
直接的に消費にはつながらないかもしれませんが、こういったすごいポーズをとっている人が着ているヨガウェアを買ったりしてしまうということです。なんの意味もないですし、関係もないのにです。
ヨガの消費の方がわかりにくいと思いますが、記号を消費しているということはたくさんあるでしょう。あるロゴマークが入っているだけで高額な値段を払う人は大勢いるわけです。
ヨガでも「ポーズがすごい」「キレイ・かっこいい」「知識を持っている」というのを記号化され、消費されています。だから、ヨガ迷子になる人も多くいるわけです。ヨガそのものの価値判断ができなくなっているからです。(している人もいますが、普通にヨガやっている人から見ると意味不明に見えることでしょう)
ヨガ – 消費されるスピリチュアリティ
「ヨガスタジオは、スタイリッシュな空間を演出し、高機能なウェアを身につけた人々が集い、アーサナを競い合っている」なんて言われれば怒るヨガスタジオ経営者も多いことでしょう。
ですが、人によっては「ヨガとはそういうものでしょ?」と普通に思う人もいます。
ですが、上記の発言には、ヨガ本来の精神性、深遠な哲学、自己の内面への探求といったものは、見当たらないかもしれません。
「ヨガ」という記号だけが消費され、人々は「ヨガをしている私」というイメージを構築し、満足感を得ているのです。ある種のファッションとしてのヨガであったりするわけです。
実際に男性から見た女性の不人気(不人気ですよ)な趣味がヨガだったりしました。これはヨガティーチャーとしても考えさせられます。
「悟り」や「心の平安」さえも、消費の対象となり、インスタントに手に入れられるものとして、イメージが拡散されています。
ミニマリズムは消費社会への抵抗か、それとも新たな消費か
ヨガをやっているとミニマリズムのような方向性が生じることがあります。
いわゆるミニマリストになるわけではないのですが、必要以上の物を持たない生活になったり、食事がシンプルになったりします。
そして、ミニマリズムやヨガは、一見、消費社会へのアンチテーゼのように見えます。
モノへの執着を捨て、シンプルに生き、身体を動かし、瞑想する。消費から離れているようにも見える。
しかし、ミニマリズムもまた、消費社会の論理から逃れられるわけではありません。
ミニマルなライフスタイルを演出するための、高機能なガジェット、効果なアウトドア用品、高価な家具やシンプルデザインの家電。
「ミニマリスト」というアイデンティティを消費する現象になっている部分もあります。
ミニマリズム自体が、新たな消費対象となり、記号化されつつあると言えるでしょう。
ヨガも一緒で、ヨガが消費対象になっています。
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真の解放はどこにあるのか
ボードリヤールは、シミュラークルな世界からの脱却は容易ではないと指摘しました。
私たちにできることは、この消費社会の構造を批判的に認識し、記号に翻弄されないように、自分自身の思考と感性を研ぎ澄ますことでしょう。
ヨガやミニマリズムは、そのためのツールとなりえます。
しかし、それらもまた、記号化され、消費される可能性があることを忘れてはなりません。
重要なのは、流行やイメージに流されることなく、自分自身にとって何が本当に大切なのかを見極めることです。
それは、ヨガの真髄である「自己探求・至福」であり、ミニマリズムが目指す「手放す・本質的な豊かさ」に繋がる道ではないでしょうか?
ヨガマットの上で、静かに自分自身と向き合う。
本当に必要なモノだけを選び取り、シンプルな暮らしを実践する。
それは、消費社会のシミュラークルに抗う、ささやかな抵抗であり、新たな生き方を探求する試みとなるはずです。
ボードリヤールの思想は、私たちに、現代社会の虚構性を見抜き、真の解放を目指すための、鋭い視点を提供してくれるのです。