周囲が楽しそうに盛り上がっている中で、どうしても一緒に大騒ぎができない。周囲から「ノリが悪い」「もっとテンションを上げなよ」と言われ、なんとなく人間関係における疎外感や引け目を感じてしまう。このような悩みを抱えている方は、忙しない現代社会の中にとても多いのではないでしょうか。
特に金曜日の夜の街や、華やかなパーティー、大人数が集まる職場の懇親会などで、周囲と同じ温度感になれない自分に罪悪感を抱く必要はありません。かつての私もまた、そうした自分の物静かな性質に、どこかで違和感を抱いていた時期がありました。しかし、ヨガの哲学や東洋思想の叡智を深く学んでいくうちに、その違和感は完全に解消されたのです。
大騒ぎできないということは、決して人間的な欠陥でも、冷淡さでもありません。それは、自らの「感覚の主権」をしっかりと握り、不必要なエネルギーの浪費を避けている、きわめて自然な状態に他ならないのです。
もくじ
宇宙の三つの性質「トリグナ」から見る静寂
東洋の古い智恵であるヨガ哲学では、この宇宙に存在するすべての物質や精神を、三つの性質(グナ)の組み合わせで説明するのが特徴です。これを「トリグナ」と呼び、私たちの心のコンディションもまた、この三つの性質のバランスによって刻一刻と変化していると考えます。
具体的には、サットヴァ、ラジャス、タマスの3つが存在するでしょう。
サットヴァ(純質)は、穏やかで、クリアに澄み渡った静かな調和の状態を指します。
ラジャス(激質)は、活動的で情熱的、常に刺激を求め、興奮して落ち着かない動的な状態です。
タマス(鈍質)は、怠惰で動きがなく、重たく停滞している保守的な状態を表します。
現代社会、特にビジネスの成功を急ぐ場や、夜の繁華街などにおける「大騒ぎして盛り上がる」という行為は、典型的な「ラジャス(激質)」の現れと言えます。ラジャスが優位になると、人は一時的に快感を覚え、エネルギッシュになりますが、その興奮が冷めると、やがて深い疲労や虚無感に襲われることになります。
一方で、「ノリが悪い」と表現される物静かな性質は、ヨガがもっとも大切にする「サットヴァ(純質)」に極めて近い状態と言わざるを得ないのです。心が静寂に包まれ、余計な刺激に揺らぐことのない安定した状態こそが、サットヴァの本質そのものと言えるでしょう。つまり、大騒ぎできないあなたは、生まれながらにしてヨガの目指すべき調和の領域に、すでに足を一歩踏み入れていると観じられるのです。
感覚を内側に引き込める技術「プラティヤーハーラ」
大騒ぎする場に身を置くと、過剰な音楽や叫び声、アルコールの匂い、他者からの強烈な感情など、無数の情報が一気に五感へと流れ込んできます。
ヨガの根本経典である『ヨーガ・スートラ』が提示する、瞑想に至るための八つの実践体系「八支則(はっしそく)」のなかに、「プラティヤーハーラ(制感)」という段階があります。これは、外側にむかって開ききっている目や耳などの感覚器官を、意図的に自らの内側へと引き込める実践を定義した言葉です。
ノリの悪い物静かな人は、このプラティヤーハーラ(制感)の回路が、生まれつき敏感に働いていると観じられます。過剰なラジャス(刺激)にさらされたとき、心が本能的に「これ以上の刺激は危険だ」と判断し、感覚のシャッターを下ろそうとしているのでしょう。
この本能的な防衛反応を「ノリが悪い」という他者のラベルによって無理やり捻じ曲げてしまうと、心身のバランスは深刻に崩れてしまいます。大騒ぎの渦中に無理やり飛び込んで偽りの笑顔を作ることは、自らの感覚を自傷行為のように痛めつけているのと同義なのです。
ミニマリズムの思想と「沈黙(マウナ)」の行
ここで、生き方におけるミニマリズムの思想を取り入れて考えてみましょう。
ミニマリズムとは、単に目に見える物や家具を減らすだけではなく、人間関係や飛び込んでくる情報、ノリの選択においても機能するべき知恵と言えます。あれもこれもと付き合いを増やし、他者のテンション(ラジャス)に同調し続ける生活は、心の中に余計なガラクタを溜め込んでいるのと同じなのです。
古代インドの修行法には「マウナ(静黙・沈黙)」という教えが存在します。あえて一切の言葉を発せず、静かに座り続けることで、自分を取り巻く世界をありのままに観照する実践と言えるでしょう。
物静かであることは、この「マウナ」の実践が日常において自然に行われている状態とも捉えられます。沈黙は決して空白でもなければ、退屈な時間でもないはずです。外側の雑音から完全に遮断された静寂の中にこそ、私たちの魂の本質である「プルシャ(純粋観照者)」が本来の輝きを取り戻すのです。
都会の真ん中で「SIQAN」を生きる
私たちは、東京の原宿や表参道という、日本でもトップクラスに騒がしく、ラジャス(激質)と消費のエネルギーが渦巻く街で活動しています。一見すると、私たちの伝えるヨガや瞑想は、そうしたきらびやかな都会とは対極にあるように思われるかもしれません。
しかし、私たちはあえて、この都会のど真ん中で「都会で覚醒すること」を提唱し続けているのです。なぜなら、静かな山奥で静寂を保つよりも、ノイズだらけの都会の中で「自らの内なる静寂」を保つことのほうが、現代人にとって圧倒的に実用的な力になるからです。
私たちの主宰するヨガクラスでは、身体をユルユルに解きほぐしたのちに、「SIQAN(シカン)」と呼ばれる、ただ静かに座る瞑想を行います。SIQANとは、頭の中のおしゃべりを止め、今ここに在る静寂そのものと一体化するアプローチに他なりません。
大騒ぎできない物静かな性質を持つ人々は、まさにこの「SIQAN」を、日常生活の中で知らず知らずのうちに体現していると言えるでしょう。世間のノリに合わせられないことを悔やむのではなく、その物静かさを、都会で凛と立ち続けるための強力なアンカー(錨)として使えば良いのです。
スヴァダルマ(自らの本質)に従うことの強さ
ヨガの歴史的古典である『バガヴァッド・ギーター』には、人間の生き方を決定づける教えが数多く記されています。その中で特に重要なのが、「スヴァダルマ(自分自身の本質や天命)」に従って生きるべきだという教えでしょう。
ギーターは、「不完全であっても自分のダルマ(義務・天命)を行う方が、どれほど見事に遂行できたとしても、他人のダルマを行うより遥かに優れている」と説きます。
大騒ぎしたい人は、その活動的な性質(ラジャス)に従って楽しめば良いですし、それを否定する必要は全くありません。同時に、物静かに静寂を愛するあなたは、自分自身の性質であるサットヴァに従って、穏やかに過ごせば良いだけの話なのです。
相手に悪気がないとしても、大騒ぎを強要してくる人々は、あなたの持つ尊いスヴァダルマを侵食しているかもしれません。自分とは異なるノリに無理に合わせず、ただ静かに一歩身を引く行為は、自分の魂への深い敬意と思いやりから生まれる英断と言えるでしょう。
終わりに:ノリの悪さは、あなたを照らす知恵である
もし誰かに「ノリが悪いね」と言われたら、心の中で「私は今、プラティヤーハーラ(制感)の実践中なのだ」と、静かに微笑んでみてください。人間関係のミニマリストとして、余計なラジャスの渦からはスッと身を引き、自分の内なるサットヴァを守り抜くこと。それこそが、情報が氾濫し、絶え間なく注意力が搾取される現代社会を、最も身軽に生き抜くための極上の知恵だと言えます。
私たちは誰もが、大騒ぎして外側にエネルギーを発散させずとも、すでに内側が完全に満ち足りている「サントーシャ(足るを知る)」の存在なのです。都会の喧騒から少し距離を置き、あなたのままで、今日もユルユルと息を吸い、静かな呼吸に耳を傾けてみませんか。その物静かな時間のなかにこそ、あなたを真に自由にする宇宙の静寂が、いつも美しく横たわっているのです。




