ヨガを推奨しております。
それは、ヨガという営みが、私たちを「観客席」から「舞台」へと引き戻してくれる、強力な装置だからです。
現代社会を見渡してみますと、少し気になる現象があります。
それは、誰もが「評論家」になりすぎている、ということです。
スマートフォンという小さな窓を通じて、世界中の出来事に瞬時にアクセスできる今、私たちは安全地帯から石を投げたり、点数をつけたりすることに慣れすぎてしまいました。
政治家の失言、芸能人のスキャンダル、あるいは友人のSNSへの投稿。
それらに対して、「けしからん」「素晴らしい」「もっとこうすべきだ」と、瞬時にジャッジを下す。
もちろん、意見を持つことは大切です。
しかし、他人の人生や作品にあれこれと言うだけで、自分自身は何も生み出していないのだとしたら、それは少し寂しいことではないでしょうか。
ヨガの実践者(ヨギー)として生きるということは、評論家であることをやめ、クリエイター(創造者)として生きる覚悟を決めることでもあります。
今日は、なぜ私たちが評論家になってしまうのか、そしてどうすれば自分の人生をクリエイトできるのかについて、静かに考えてみたいと思います。
もくじ.
安全な「観客席」という罠
なぜ、人は評論家になりたがるのでしょうか。
答えはシンプルです。それが「楽」であり「安全」だからです。
誰かが作った料理の味に文句を言うのは簡単です。
しかし、自分で包丁を握り、火加減を調整し、誰かに食べてもらう料理を作ることは、失敗のリスクを伴います。
映画を見て「つまらない」と言うのは一瞬です。
しかし、一本の脚本を書き上げ、映像作品として完成させるには、膨大なエネルギーと、批判に晒される恐怖と向き合う必要があります。
評論家のポジションにいる限り、私たちは傷つくことがありません。
「自分は分かっている」「自分は高みから見ている」という優越感(エゴ)に浸ることもできます。
現代のSNSというシステムは、この「安全な場所からのジャッジ」を加速させ、私たち全員をコメンテーターに変えてしまいました。
しかし、ヨガの視点から見れば、これは深刻なエネルギーの漏洩です。
他人の動向に反応し、批判や称賛という形でエネルギーを放出し続けることは、自分の人生を生きるためのガソリンを捨てているようなものです。
他人の土俵で相撲をとってはいけません。
あなたが立つべきは、あなた自身の土俵です。
ヨガとは「行為(カルマ)」である
ヨガの経典『バガヴァッド・ギータ』は、徹底して「行為(カルマ)」の重要性を説いています。
「行為しないことによっては、何ごとも達成されない」と。
ヨガは、哲学書を読むだけで完結するものではありません。
マットの上に立ち、身体を動かし、呼吸を整え、汗をかく。
その「実践」の中にしか、真実は宿らないのです。
どれだけヨガの歴史に詳しくても、どれだけポーズの理論を語れても、実際にマットの上で自分と向き合っていないのであれば、それはヨガを知っているとは言えません。
これは人生も同じです。
「こうすれば成功する」「あれは間違っている」と口で言うのは簡単ですが、実際に泥臭く行動し、失敗し、そこから学ぶこと。
それこそが「クリエイター」としての生き方です。
クリエイターとは、アーティストや作家のことだけを指すのではありません。
「今日という一日を、自分の意志で創り出す人」すべてがクリエイターなのです。
朝、どんな気分で目覚めるかを選ぶこと。
誰にどんな言葉をかけるかを選ぶこと。
どんな仕事をし、どんな食事をするかを選ぶこと。
それら一つひとつの選択が、あなたの人生という作品を創り上げていきます。
反応するのではなく、選択するのです。
「正しさ」よりも「楽しさ」を選ぶ
評論家は常に「正しさ」を求めます。
「それは正しいか、間違っているか」という二元論の世界に住んでいます。
この世界は窮屈です。常に間違いを探し、断罪しなければならないからです。
そこには「遊び」や「ゆとり」がありません。
一方で、クリエイターは「楽しさ」や「心地よさ」を基準にします。
「これは面白いか?」「これは私の魂が喜ぶか?」
ヨガで言えば、ポーズの形が教科書通りに正しいかどうかよりも、そのポーズの中で呼吸が深く通り、生命力が躍動しているかどうかが重要なのです。
現代社会は「正解」を求めすぎます。
失敗しないルート、効率的な方法、損をしない選択。
しかし、正解ばかりをなぞって生きる人生は、誰かが書いたシナリオを演じているに過ぎません。
カオス(混沌)を受け入れ、正解のない場所に、自分だけの道を創ること。
失敗さえも、作品のスパイスとして面白がること。
その軽やかさこそが、スピリチュアルな成長(アセンションと言ってもいいでしょう)には不可欠です。
破壊のエネルギーではなく、創造のエネルギーを
スピリチュアルな観点から言えば、批判や愚痴は非常に重い波動を持っています。
何かを攻撃するとき、私たちはその対象にエネルギーを注いでいます。
「あの政治家はダメだ」「この社会システムはおかしい」と怒れば怒るほど、皮肉なことに、私たちはその対象を強化してしまうのです(これを振り子の法則と呼びます)。
嫌いなものを減らすために戦うのではなく、好きなものを増やすために動くこと。
暗闇を嘆くのではなく、一本のロウソクを灯すこと。
それがクリエイターの態度です。
世界を変えようとしなくていいのです。
ただ、あなた自身が「ご機嫌」でいること。
あなたが喜びの波動で満たされ、素晴らしい作品(それは笑顔かもしれないし、美味しい料理かもしれないし、親切な行動かもしれない)を生み出すこと。
その波紋が、結果として世界を少しだけ明るくします。
「私は創造主である」という自覚
インド哲学では、「ブラフマン(宇宙の根本原理)」と「アートマン(真の自己)」は同一であると説きます(梵我一如)。
宇宙が創造のエネルギーそのものであるならば、その一部である私たちもまた、生まれながらの創造主なのです。
何かを生み出すことに、許可はいりません。
資格もいりません。
「私なんかが」というエゴのささやき(これも一種の自己評論です)をスルーして、ただ手を動かしてみるのです。
文章を書いてみる、絵を描いてみる、庭に花を植えてみる。
あるいは、新しいビジネスを始めてみる。
その時、上手いか下手かは関係ありません。
「評価されるためにやる」という意識(他者承認)を手放し、「ただやりたいからやる」という純粋な衝動(内的必然性)に従うとき、私たちは宇宙の流れと完全に同調します。
終わりに:マットの外で、何を創りますか?
ヨガスタジオでポーズをとることは、練習に過ぎません。
本番は、スタジオを出た後に始まります。
今日、あなたは評論家として、誰かの人生に点数をつけて過ごしますか?
それとも、クリエイターとして、あなただけの人生を彩りますか?
もし迷ったら、思い出してください。
批判の言葉は風に消えますが、創造したものは、たとえ小さくても、この世界に確かな痕跡として残るということを。
失敗してもいいのです。誰に笑われてもいいのです。
観客席から降りて、アリーナ(舞台)に立ちましょう。
顔を泥と汗で汚しながら、懸命に生きる人だけが味わえる、静かで熱い充足感がそこにあります。
さあ、今日は何を創りましょうか。
ではまた。



