ラージャヨガ(王のヨガ)を推奨しております。
それは、ラージャヨガが単なる体操やリラクゼーションのメソッドではなく、人間の意識を根本から変容させるための、極めて精緻な「心の科学」だからです。
ヨガを実践されている方なら、パタンジャリの『ヨガ・スートラ』という古典経典をご存知かもしれません。
この経典の中で、ヨガの最終的な実践段階として説かれているのが、今回テーマとする「サンヤマ(Samyama・総制)」です。
これは少し難解な概念かもしれません。
しかし、このサンヤマこそが、私たちが「天才」と呼ぶ人々の集中状態や、あるいは「奇跡」と呼ばれる現象の正体を解き明かす鍵となります。
現代社会において最も失われつつある、しかし最も強力な精神のツールについて、今日は静かに、そして深く掘り下げてみたいと思います。
もくじ.
サンヤマとは何か:意識の三位一体
サンヤマとは、一つの独立した技法ではありません。
ヨガの八支則(アシュタンガ・ヨガ)における、最後の三つの段階が、シームレスに(継ぎ目なく)統合された状態を指します。
その三つとは以下の通りです。
・ダーラナ(Dharana・集中):
心を一つの対象(場所や物、音など)に縛り付けること。意識の焦点を一点に絞り込む段階です。
・ディヤーナ(Dhyana・瞑想):
その対象への集中の流れが、途切れることなく続いている状態。油を注ぐように、意識の流れが滑らかになった段階です。
・サマディ(Samadhi・三昧):
集中している「自分」という感覚が消え、対象そのものが光り輝いている状態。見るもの(主観)と見られるもの(客観)の境界が消滅した段階です。
この三つが、別々のプロセスではなく、一つの連続した流れとして起こるとき、それを「サンヤマ」と呼びます。
虫眼鏡で太陽の光を集めると、一点に焦点が定まり(ダーラナ)、光が凝縮され続け(ディヤーナ)、やがて紙が燃え上がる(サマディ)。
この一連のプロセス全体がサンヤマです。
なぜサンヤマが必要なのか:対象の本質を知る技術
では、なぜヨガ行者はこのサンヤマを練習するのでしょうか。
超能力を得るためでしょうか? 空を飛ぶためでしょうか?
『ヨガ・スートラ』の第3章(ヴィブーティ・パダ)には、サンヤマによって得られる様々な超常的な力(シッディ)が記述されています。
象にサンヤマすれば象の怪力が、太陽にサンヤマすれば宇宙の構造の知識が得られる、といった具合です。
しかし、本質はそこではありません。
サンヤマの真の目的は、「対象の本質(真理)を完全に理解すること(Jaya)」にあります。
私たちは普段、物事を「外側」からしか見ていません。
リンゴを見ても、「赤い」「丸い」「美味しそう」という、自分の記憶や知識というフィルターを通したラベルを貼って見ています。
それはリンゴそのものではなく、「私にとってのリンゴ」を見ているに過ぎません。
サンヤマにおいて、自我(エゴ)というフィルターが消滅し、対象と完全に一体化したとき、私たちは対象を「内側」から知ることになります。
それは、知的な理解を超えた、直感的な「合一」です。
「愛する」という行為の究極形と言ってもいいかもしれません。
相手と自分が一つになること。そこに言葉はいりません。
世界と深いレベルで握手をする技術、それがサンヤマなのです。
現代社会とサンヤマ:注意散漫という病
ここで、現代社会を見渡してみましょう。
私たちの意識は、サンヤマとは真逆の状態、つまり「極度の分散」状態にあります。
スマートフォンは数分おきに通知を鳴らし、意識を強制的に断ち切ります。
動画サイトでは数秒ごとにカットが切り替わり、私たちの集中力を持続させないように設計されています。
これは「アンチ・サンヤマ」のトレーニングを毎日何時間も受けているようなものです。
意識が分散しているとき、私たちは物事の表面しか撫でることができません。
仕事も、人間関係も、そして自分自身の人生でさえも、浅く、記号的に処理して終わってしまうのです。
「分かった気」にはなりますが、本当の意味では何も分かっていない。
だから、虚しいのです。
深く対象と交わっていないからです。
現代人が抱える慢性的な疲労感や空虚感は、エネルギー不足というよりは、エネルギーの漏電によるものです。
あちこちに意識が飛び散り、統合されていない。
サンヤマは、この散らばったエネルギーを回収し、一点に注ぎ込むことで、人生の解像度を劇的に高める営みでもあります。
スピリチュアルな視点:奇跡は「エゴの不在」に宿る
スピリチュアルな探求をしている方へのアドバイスも少し含めましょう。
もしあなたが、現実を変えたい、あるいは何か特別な力を得たいと願ってサンヤマに興味を持ったのなら、一つだけ注意が必要です。
「私が」力を得たいと思っている限り、サンヤマは成就しません。
なぜなら、サンヤマの最終段階であるサマディは、「私(エゴ)」が消滅した状態だからです。
「コントロールしたい」「結果を出したい」という欲求は、ノイズとなって集中を妨げます。
最強の力とは、力を行使しようとする者がいなくなった時に発動するものです。
これを「無為自然」と言ってもいいですし、「フロー状態」と言ってもいいでしょう。
例えば、熟練の職人が作業に没頭しているとき、そこには「俺が作ってやる」という意識はありません。
ただ、手と道具と素材が一つになって動いているだけです。
その時、信じられないような精緻な仕事(奇跡)が生まれます。
サンヤマの実践とは、何かを念じることではなく、邪魔をしている「自分」を透明にしていくプロセスです。
自分を謎にしておくこと、空にしておくこと。
そうして初めて、対象(世界)の秘密が向こうから明かされるのです。
実践:日常におけるサンヤマ
では、どうすればこのサンヤマを練習できるのでしょうか。
山に籠る必要はありません。
日常のあらゆる場面がサンヤマの入り口になります。
例えば、コーヒーを淹れるとき。
お湯を注ぐその一点に、全意識(ダーラナ)を向けます。
香り、音、湯気、手の感覚。その流れが途切れないように持続させます(ディヤーナ)。
ふと、「淹れている私」が消え、ただ「コーヒーが抽出される現象」だけが存在する瞬間(サマディ)。
それが起きたとき、そのコーヒーは格別の味になるでしょう。
掃除でも、歩くことでも、あるいは誰かの話を聞くことでも同じです。
「ながら」をやめること。
マルチタスクという幻想を捨て、シングルタスクの深淵に潜ること。
そうやって意識の密度を高めていくと、日常の風景が一変します。
道端の花が、ただの花ではなく、生命の神秘そのものとして迫ってくるかもしれません。
苦手だったあの人の言葉が、その背景にある悲しみと共に、深く理解できるかもしれません。
終わりに:ヨガのその先へ
ヨガのアーサナ(ポーズ)は、身体を使ったサンヤマの練習です。
身体という対象に集中し、一体化する練習です。
ですから、身体が柔らかいかどうかは本質的な問題ではありません。
どれだけ深く、自分の身体と「一つ」になれたか。それだけが重要です。
サンヤマというレンズを通して世界を見るとき、私たちは自分が孤独な存在ではないことを思い出します。
見るものと見られるものは、本質的には同じ一つの意識から生まれているからです。
その一体感こそが、ヨガ(Yuj=結合)のゴールであり、私たちが求めてやまない安らぎの正体なのです。
まずは、スマホを置いて、目の前の一杯のお茶と、深く向き合うことから始めてみませんか。
その静寂の中に、すべてがあります。
ではまた。


