ヨガを推奨しております。
ヨガとは、誰かに救ってもらうための宗教的な儀式ではなく、自らの足で立ち、自らの光で道を照らしていくための、極めて実践的な体系だからです。
スタジオには日々、多くの悩みを抱えた方がいらっしゃいます。
身体の不調、心の不安、人間関係のもつれ、あるいは「私は誰なのか」という根源的な問い。
指導者として、その重荷を少しでも軽くしてあげたい、助けてあげたいと思うのは、人として自然な感情かもしれません。
しかし、ここで私たちは一度立ち止まり、ヨガという教えの原点に還る必要があります。
ヨガの先生の役割とは、生徒を「助ける(Help)」ことなのでしょうか?
それとも、別の何か、「支える(Support)」ことなのでしょうか?
一見似ているこの二つの言葉の間には、天と地ほどの深い隔たりがあります。
今日は、指導者と生徒の関係性、ひいては私たちが現代社会で陥りがちな「依存」と「自立」の問題について、静かにお話ししてみたいと思います。
もくじ.
現代社会が抱える「救済」への渇望
私たちは今、かつてないほど「答え」や「救い」を外部に求める社会に生きています。
体調が悪ければ医師や薬が治してくれる。
わからなければ検索エンジンが教えてくれる。
寂しければSNSが埋めてくれる。
資本主義社会は「あなたには何かが欠けている」と囁き続け、その欠落を埋めるための商品やサービスを提供します。
この構造の中にいると、私たちは無意識のうちに「消費者(カスタマー)」のマインドになってしまいます。
「お金を払ったのだから、私を良くしてほしい」「先生が私を変えてくれるはずだ」と。
ヨガスタジオに来る時も、無意識にこの「救済モデル」を持ち込んでしまうことがあります。
「先生、私の腰痛を治してください」
「先生、私の不安を取り除いてください」
しかし、ヨガの指導者がその期待に応えて「はい、私が治してあげましょう」「私が救ってあげましょう」と手を差し伸べた瞬間、そこには危険な共依存関係が生まれます。
それは「力のある者(救う人)」と「力のない者(救われる人)」という、見えない上下関係の固定化です。
「助ける」という行為には、実は「あなたは自分一人では問題を解決できない無力な存在だ」というメッセージが隠されていることがあるのです。
これは、相手の本来持っている力を奪うことになりかねません。
「助ける」と「支える」の決定的な違い
では、ヨガの先生が本来なすべき「サポート(支える)」とは何でしょうか。
植物を育てる庭師をイメージしてみてください。
庭師は、土を耕し、水をやり、日当たりを調整します。これが「サポート」です。
しかし、庭師は植物の代わりに成長することはできません。
「早く育て」と茎を引っ張って伸ばそうとすれば、植物は死んでしまいます。これが間違った「ヘルプ(お節介)」です。
ヨガの指導者も同じです。
私たちは、安全な空間(スペース)を用意し、正しいアライメントを伝え、呼吸が深まるような環境を整えます。
これがサポートです。
しかし、実際にマットの上で呼吸をし、自分の内側の感覚と向き合い、気づきを得るのは、生徒さん自身でしかあり得ないのです。
「助ける」ことは、相手の荷物を代わりに背負ってあげることです。
「支える」ことは、相手が自分で荷物を背負えるように、背負い方を教えたり、そばで「君ならできる」と信じて見守ることです。
前者は一時的に楽になりますが、筋力はつきません。
後者は時間はかかりますが、確実に生きる力が養われます。
ヨガが目指すのは、もちろん後者です。
「グル」の本当の意味とは
ヨガの世界では、指導者を「グル(Guru)」と呼ぶことがあります。
現代ではこの言葉がカルト的な意味合いで誤解されることもありますが、サンスクリット語の語源は非常にシンプルです。
「Gu」は「闇」、「Ru」は「取り除くもの」。
つまり、グルとは「闇(無知)を取り除く人」という意味です。
ここで重要なのは、グルは「光を与える人」ではないということです。
光は、すでに生徒の内側にあります。
ただ、それが「無知(アヴィディヤー)」や「執着」「恐れ」という雲に覆われて見えなくなっているだけなのです。
指導者の役割は、その雲を払うための風を送ることです。
あるいは、鏡となって、生徒自身が自分の姿に気づくのを手助けすることです。
「ほら、あなたの中にはこんなに素晴らしい光があるじゃないですか」と、指し示すだけなのです。
もし指導者が「私が光だ、私についてきなさい」と言い始めたら、それはエゴの暴走です。
それは生徒を永遠に暗闇の中に留め置き、自分という懐中電灯がないと歩けないようにする行為です。
本物の指導者は、自分がいなくても生徒が一人で歩けるようになること(自立)を、最大の喜びとします。
カルマへの介入とスピリチュアルな視点
少しスピリチュアルな視点からもお話ししましょう。
人が人生で直面する困難や苦しみは、その人の魂が成長するために自ら選んだ課題、あるいは解消すべき「カルマ(業)」であるという考え方があります。
蝶がサナギから出る時、必死にもがくことで羽に血液を送り込み、飛ぶ力を得ます。
「かわいそうだ」と思って人間がサナギを切り開いて助けてしまうと、その蝶は二度と空を飛ぶことができません。
私たちが安易に誰かを「助けよう」とすることは、時にその人が飛ぶための力を奪うことになります。
その人が直面している課題(カルマ)を、横取りしてはいけないのです。
冷たく聞こえるかもしれませんが、相手の苦しみをただ静かに見守る「観照(サクシ)」の態度こそが、最も深い慈悲(カルナ)であることがあります。
「あなたには、この苦しみを乗り越え、それを糧にするだけの強さがある」
そう心底から信じているからこそ、手を出さずに見守ることができるのです。
それは、相手の生命力、神性への絶対的な信頼です。
現代社会における「カイヴァリヤ(独存)」
ヨガの最終的なゴールの一つに「カイヴァリヤ(独存・絶対的自由)」という境地があります。
これは、何ものにも依存せず、何ものにも影響されず、ただ純粋な意識として自立して存在することです。
現代社会は相互依存で成り立っていますが、精神的な意味での「個の確立」は不可欠です。
誰かに幸せにしてもらうのを待つのではなく、自分で自分を幸せにする。
先生に正解を教えてもらうのではなく、自分の内側に答えを見つける。
ヨガスタジオは、その「精神的な自立」を練習する道場であるべきです。
インストラクターの指示通りに動くだけでなく、「今日の私の身体はどう動きたがっているか?」を感じ取る。
それが、マットの外の人生で、誰かの意見に流されずに自分の道を歩く力へと繋がっていきます。
指導者の方へ、そして生徒の方へ
もしあなたが指導者なら、どうか「治してあげよう」「救ってあげよう」という重荷を下ろしてください。
あなたはヒーラーでも救世主でもありません。ただのガイドです。
ガイドがすべきことは、背負うことではなく、道を照らし、安全を確保し、あとは相手の歩調に合わせて横を歩くことです。
自分の無力さを認めることは、逆に大きなパワーを生みます。
もしあなたが生徒なら、どうか自分の力を誰かに明け渡さないでください。
素晴らしい先生に出会ったとしても、その先生を崇拝しすぎないでください。
先生の中に感じる素晴らしさは、実はあなたの中にある素晴らしさが共鳴しているだけなのです。
先生は、未来のあなたの姿を映し出す鏡に過ぎません。
終わりに:縁側のような関係性
EngawaYogaが目指すのは、まさに「縁側」のような関係性です。
縁側では、誰かが誰かを一方的に教導したり、救済したりはしません。
ただ、隣に並んで座り、同じ方向(庭や空)を眺めます。
「いい風ですね」「お茶が美味しいですね」と、体験を共有します。
そこには上下関係も、依存関係もありません。
ただ、独立した二つの魂が、ひととき同じ空間を共有し、互いの存在を尊重し合っているだけです。
必要なら手を貸しますが、基本的にはそれぞれの足で立ち、それぞれの家に帰っていきます。
助け合うのではなく、支え合う。
依存するのではなく、共鳴し合う。
ヨガを通して、そんな自立した大人の優しさが、この世界に増えていくことを願っています。
あなたがあなた自身のグルになれる日まで、私たちはこの縁側で、静かに場を温めてお待ちしております。
ではまた。


