人はやればできるのか、やれないのは自分のせいか環境のせいか、そもそもやればできると思えるのはどこから来るのか

才能開花

あなたは「やればできる」と思っている人ですか。

人はやればできるのだから、「やれないのは努力が足りない」と思っている人ですか。

それとも「やってもできないことはある」という人でしょうか。

程度の差の問題でしょうか。

かなり大変だけどやれば大概のことはできると思っていますか。

大変なこと、大変ではないことの境目はどこにあるのでしょうか。

定義はその人の中にしかないことでしょう。

なぜなら、そもそも大変の度合いが人によって異なるからです。

生まれ持った身長でも異なるし、言語によっても縛りはあるし、食事の好みの問題もあることでしょう。

身長で差がでるスポーツだと体操は身長低めが有利、バスケットボール(ポジションや例外はおいといて)だと身長高めが有利など。

大変の度合いもまた人それぞれなので、大変でもやればできるというのは人とは共有ができなそうです。

もう少しこのあたりを見ていきます。

 

小さなジャンルでも「やればできる」のか

ジャンル毎に小さな世界として見るとどうなるのでしょうか。

そのジャンル毎に「ここまでは継続してやれば誰もが到達できる地点」と「ここは努力や工夫だけではない要素が必要な地点」とあることでしょう。

プロ野球選手になる人はどちらでしょうか。

誰でも努力すればプロ野球選手になれるでしょうか、それとも難しいでしょうか。

努力が足りないからプロ野球選手になれないのでしょうか。

努力の問題だけではないですが、努力は必要です。

では、その努力をするというのはどのような要素でなりたっているのでしょうか。

「本人の気持ちだけ」なんて思う人はさすがに皆無に思います。(気持ちだけで努力できるなら洗脳すればプロ野球選手になれます)

そうです、環境や遺伝や偶然によって「努力をしようと思えること」から「実際に努力ができること」から「その努力を継続できること」までも影響を受けます。

「努力をしようと思えること」と「実際に努力ができること」ではかなりの差があります。

「実際に努力ができること」とそれが継続できることにもかなりの差があります。

「やればできる」は一種の宗教です。

プロ野球選手など限られたジャンルの中で才能を発揮していきたい場合はそもそも向いているかどうかも大事で、さらに努力をしようと思えて実際に努力ができて、さらにその努力が継続できることが必要です。

とても大変そうですね。

ですが、先ほども書いた通りやればできることは山ほどあるのも事実です。

 

ヨガはやればできるタイプのジャンルとなる

ヨガはプロ野球選手になるのとは別に「やれば誰でもできる」タイプの職業です。

高校の部活くらいの努力でできます。

本当です。

そのくらいもやっていないYogaでお金をもらっている人もたくさんいるくらいですし。(これも本当です)

高校の部活は平日1日2時間練習して、自主練習を週に合計2時間やったとしましょう。

月に1度試合として2時間実戦するとします。

単純な合計で月に合計50時間の時間を使っています。

1年で600時間、3年間で1800時間。

1800時間をヨガへと取り組めば普通に先生になれます。

高校部活レベルの練習量で先生になれるというわけです。

実際はもっと少ない時間で先生になっている人が多いと思います。(それまでの社会人経験や持っているスキルも異なるので単純にはいきませんが)

もちろん普通の一般的な職業ではまったく足りません。

1年間でさえ、もっと働く人も多いことでしょう。

でもヨガ業界はなぜかこの程度です。

びっくりですよね。

なので、ヨガに関しては「誰でも一定の努力をすれば先生になれる」と言えてしまいます。

実際はもっと練習も勉強もしていない先生がほとんどです。(何回も言うなと)

なのでヨガ業界で”普通”に仕事を一生懸命やれば結構できるところにいけることでしょう。

ヨガ自体は一生ものであるように、毎日の鍛錬や瞑想、ヨガ哲学の勉強と継続する必要があります。

その継続をしっかりとやっている人ももちろんいらっしゃいます。

そしてこのような先生に、このブログを読んでいるあなたはあまり出会ったことがないと思います。

普通のヨガスタジオやホットヨガスタジオではそういった先生は教えていないことが殆どだからです。(ヨガをマスターしたい人はそんなに就職しないし、ホットヨガも商売なのでヨガよりも接客や販売をインストラクターには得意としてもらいたいので)

これはビジネス的に当然でミスマッチだからです。

生徒さんが「マジの練習」も「ヨガの歴史や哲学」も「1時間や2時間の瞑想」も求めていないからです。

私も前に1日瞑想会とかやりましたが、1回目は興味本位で結構人が来てくれましたが、回数を重ねる毎にどんどん人が減り、最後には1人や2人になっていました。(私のサービスが悪いとかの問題ではなく、単純に求めている人が少ない。もしくは現実的に時間がなくて参加できないということ。)

座禅会とかは1週間毎日8時間とか座りますが、そちらはそのようなしっかりと座りたい在家の人々がいるから支えられています。(伝統と一緒にそういった人たちを育ててきている)

ヨガにおいてはそういった瞑想をしっかりとやろうとする人はいないのだと思います。(もちろんいるでしょうが、非常に少ないのでしょう)

そういった人をヨガでも育てていくことは非常に大事に思います。

ヨガの現状のことを書いてしまっていますが、努力ができるかできないかの話でした。

 

努力ができるのも才能に含まれるのか

「努力ができるのも才能」という言い方があります。

半分はそうだと思います。

もう半分は偶然と環境だと思っています。

半分は遺伝で決まってしまっているが、なんとかする余力もまだ残っているという感じです。

私の経験では中学校の頃に仲の良かった友人の家にパソコンが早々にありました。

そこのお父さんが「パソコンは全て数学でできているんだよ」と教えてくれました。

その言葉に痺れて私は数学に興味を持ちます。

高校生(普通の公立高校)の時に私の姉が「受験勉強は早いほどいいから、何でもいいから勉強しておくといいよ。たとえ1教科だけでも」という助言があり、母親に頼んで数学だけ高校2年生から予備校に通うことになります。

私はぼぉーとしているタイプなので受験勉強なんて2年生になっても何も、頭の片隅にもありませんでした。

でもそこで数学にハマり、私立難関模試で全国2位を数学だけとりました。

受験数学の才能があったのか、というともちろん”ない”でしょう。

でも偶然の成り行きで数学にハマることができ、数学の成績が上がったことは間違いないです。

努力なのでしょうか。

パソコンが数学でできているという言葉に動かされたからでもあり、姉からの助言もあり、そして1教科くらいなら予備校に通える余裕が家庭にあり、そして通える予備校がそばにあり、その予備校のテキストがそれなりに良かったこともあり、そして私が数学の勉強をすることを邪魔する人(親に邪魔される人もいる)もいなかったという偶然の積み重ねです。

そうやって初めて数学を勉強することができたのです。

まったく誇張はないですよね。

けっこうラッキーなんですよ、これは。

こういうことが皆さんの得意なことに(ほんの少しの得意であっても)起こっているのです。

これを努力と呼ぶのか、それとも運と呼ぶのか。

先ほど努力は半分と書きましたが、実際に蓋を開けてみると運がほとんどだと思っています。

結局やれるときにやろうと思えるのも運が孕んでいるとも思うからです。

環境も周りの人物も全部が運だと思ってしまうのです。

これも50代とかになると運だけでなく才能や努力の影響度合いも増えていくでしょうが、それでも環境からの影響や周りの人からの影響の積み重ねによる運は大きく存在すると観じます。

 

あなたはどんな人でも全員が才能があると思いますか。

私は限られた人にしか才能はないと思っています。

そして才能のある人は複数の才能を持っているとも思っています。

わたしはプロ野球選手であるならば二軍だろうがレギュラーになれなかろうが、それなりな才能がある人たちだと思っています。

プロ野球選手になることは非常に難しい。

努力云々ではないところが多分にある。

そういうものに思っています。

そして努力は才能とも関係があると思っています。(さっきから書いている通り)

結局のところ、努力ができるということは才能(先天的)にある程度は決まっていると思っています。

以下の書籍なども読むとそのようしか思えなくなります。

だからって自分でできる範囲がないわけではもちろんありません。

工夫する余地は沢山あると思っています。

 

やればできることは沢山あるけど、やること自体ができないことも多い

「やっても出来ないことがある」の前に、そもそもやること自体ができないことがあるということです。

環境的にできないだけでなく”能力と気持ち”でも出来ないというものです。

小さい頃にピアノを継続して弾く機会がなければプロのピアニストは無理です。(1億人に1人の例外とかは出さないでくださいね)

人には性格があります。

内向的な人、外向的な人、それぞれいますね。

グラデーションで存在しているので環境や条件によって変わることもあるでしょうし、年齢で多少は変化することでしょう。

でもその人の本質的な特性は大きくは変わらないと感じます。

それだけでも向いている職場、向いていない職場があると思います。

向いている職業、向いていない職業があります。

これをやればできるという努力信仰でやっていくとどうなるか。

ストレスフルで精神を病んでしまいます。

やればできるということの対象には「向いていること」という言葉が含まれているのです。

向いていることはやればできるということです。

向いていることの周辺にも同じように向いていることも多い。

将棋の羽生名人が趣味のチェスがプロ級に強いとか。

やればできることはあるけど、多くのことは向いていないとそもそもやれない。

やれるやれないの前にそういった環境や機会に恵まれないと、それらを努力するどころか認知することもできない。

ということになります。

なので、自分が感覚的に好きだと思えることがあり、それができる環境がある人はとても幸福です。

自分に向いていることが見つかる環境を作っていく、新しい事と出会える環境を作っていくことは自分の才能を発揮し、努力がある程度出来てしまう人になるのに大切に思います。

そして、少しの幸運があなたに届きますように。

 

終わりに:向いていること、そしてその中で好きなこと

私は好きなことをしようと言っています。

仕事でそれなりに稼ぎたい人は向いていることを選ぶことをお勧めしています。

向いていることは能力が人よりも高い、そして向上するのも早いということです。

給与も高くなる可能性が高いということです。

向いていることでさらに好きだと最高です。

そういったことを選んでとにかく継続して積み重ねるのがいいと思います。

あまり頭で考えすぎずにやれると王道に乗れるかと思います。

何が向いているかはやってみるしかないと言えますが、ある程度は絞れると思います。

一人でやるのか、少人数でやるのか、大規模なのか。

人とどのぐらい接するのか。

高度な知能が必要なのか、身体性が必要なのか、アイデアが常に求められるのか。

などなど、いろんな要素はあるけれど、向いている要素を書き出していくとある程度は絞れると思います。

想像と現実は乖離がありますので、あとは実際にやっていきながら修正です。

どう考えても苦手なことを仕事にするのはちょっとお勧めはできないですね。

うまくいかないので嫌いになってしまいますし、ストレス過多になります。

あなたの向いていること、好きなこと、恵まれていることはなんでしょうか。

それを育てると人生はどこまでも明るくなっていくことでしょう。