ヨガを推奨しております。
「手放すこと」の豊かさについてお話ししてきましたが、今日はあえて逆説的な視点、つまり現代社会が強固に信じ込んでいる「持っていれば持っているほど豊かである」という神話について、少しをテコを入れてみたいと思います。
私たちは幼い頃から、無意識のうちにこの公式を刷り込まれて育ちます。
おもちゃが多い子が幸せ。偏差値が高い子が幸せ。年収が高い大人が幸せ。
「More is Better(多ければ多いほど良い)」という資本主義の教義です。
しかし、本当にそうでしょうか?
今日は、この「所有=幸福」という図式の裏側にあるメカニズムと、そこからの脱却について、静かに考えてみたいと思います。
所有は「不安」の裏返しである
なぜ私たちは、これほどまでにモノや金、あるいは知識や資格を溜め込みたがるのでしょうか。
その根底にあるのは「欠乏への恐怖(Fear of Lacking)」です。
「いつか無くなるかもしれない」「これがないと困るかもしれない」「自分には何かが足りない」
この根源的な不安を埋めるために、私たちは外側の何かを獲得しようと必死になります。
つまり、過剰な所有欲求は、実は「私は満たされていない」という自己否定の叫びなのです。
どれだけ高級な時計を腕に巻いても、どれだけ銀行口座の数字が増えても、心の底にある「自分は不完全だ」という穴が塞がらない限り、不安は消えません。
むしろ、持てば持つほど、「失うことへの恐怖」という新たな不安が追加されるだけです。
これは、喉が渇いたからといって海水を飲むようなものです。飲めば飲むほど、渇きは激しくなります。
所有物が私たちを所有する
映画『ファイト・クラブ』の中に、こんなセリフがあります。
「お前が所有しているものが、いつかお前を所有するようになる」
“The things you own end up owning you.”
これは真理です。
広い家を持てば、掃除や管理に時間を奪われます。
高価な服を持てば、汚れを気にして行動が制限されます。
多くのSNSフォロワーを持てば、その期待に応えるために自分の発言を検閲するようになります。
私たちは「持ち主」のつもりでいますが、いつの間にかモノや地位の「管理人」に成り下がっているのです。
ヨガの実践者(ヨギ)が身軽なのは、管理人の仕事を辞めたからです。
所有物を最小限にすることで、彼らは自分自身の時間とエネルギーを、モノの維持管理ではなく、自己の探求や他者への奉仕といった、より本質的な活動に注ぐことができるようになります。
これこそが、真の「豊かさ」ではないでしょうか。
「フロー(循環)」の中に豊かさはある
ヨガ的な観点から言えば、本当の豊かさとは「ストック(貯蔵)」の量ではなく、「フロー(循環)」の量で決まります。
湖の水は、流れ込んでくる水と流れ出ていく水が絶えず循環しているからこそ、澄んでいられます。
出口を塞いで溜め込もうとすれば、水は腐り、生命は死に絶えます。
お金もエネルギーも同じです。
自分のところで堰き止めて「私のもの」と執着する(ストックする)と、エネルギーは淀み始めます。
逆に、入ってきたものを感謝と共に使い、循環させていく(フローさせる)人は、常に新鮮なエネルギーに満ちています。
「持っている量」は少なくても、必要な時に必要なものがちゃんと流れてくる。
この「宇宙の循環への信頼」を持っている人こそが、本当の意味での富豪(Wealthy)なのです。
空っぽの器にしか、新しい酒は注げない
禅の教えに「空の器」の寓話があります。
知識を求めて訪ねてきた学者に対し、老師がお茶を注ぎ続けます。
カップからお茶が溢れても注ぎ続ける老師を見て、学者は叫びます。「もう一杯です!入りません!」
老師は答えます。「あなたの心も、このカップと同じだ。自分の考えや偏見で一杯になっている。まずその中身を捨てなければ、私は新しい智慧を注ぐことはできない」
私たちは、モノだけでなく、知識や経験、過去のプライドでいっぱいです。
「私は知っている」「私は経験豊富だ」
その「持ち物」が邪魔をして、新しい気づきや、目の前の人の真実が見えなくなっています。
ヨガでいう「空(シューニャ)」の状態になること。
それは、自分を空っぽの器にすることです。
持っているものを手放し、何者でもない自分に戻ったとき、私たちは無限の可能性を受け入れる準備が整います。
「無一物(むいちもつ)」とは、何も持っていないことではなく、何ものにも妨げられない自由な境地のことなのです。
終わりに:所有から存在へ
エーリッヒ・フロムは著書『生きるということ』の中で、人間の生き方を「持つ様式(Having)」と「ある様式(Being)」の二つに分けました。
現代社会の大部分は「持つ様式」に支配されています。
「私は家を持っている」「私は知識を持っている」。
自己のアイデンティティを所有物に依存する生き方です。
対してヨガが目指すのは「ある様式」です。
何を持っていようがいまいが、ただ「ここに在る」ことの喜びを感じられる生き方。
夕日が美しいと感じる心、風の心地よさを味わう身体、大切な人と笑い合える時間。
これらは所有することはできませんが、体験することはできます。
私たちは、何かを持つために生まれてきたのではなく、この世界を体験し、味わうために生まれてきたのです。
「持っていれば持っているほど豊かである」という重たい神話を、そろそろ下ろしてみませんか。
手ぶらで歩く人生の、なんと軽やかで清々しいことか。
その軽やかさの中にこそ、あなたがずっと探していた本当の豊かさが隠れています。
ではまた。



