私たちは、何かを「手に入れる」ことこそが、幸福への唯一の道だと教え込まれて育ちました。
より多くの知識、より高い地位、より美しい容姿、そしてより多くのフォロワー。
資本主義社会という巨大なシステムは、「不足」という幻想を巧みに操り、私たちを終わりのない獲得競争へと駆り立てます。
「今のままのあなたでは不十分だ」と耳元で囁き続け、その不安を埋めるための商品を次々と差し出してくるのです。
しかし、立ち止まって考えてみてください。
手に入れれば入れるほど、私たちの呼吸は浅くなり、身体は重くなり、心は恐怖に支配されていくのはなぜでしょうか。
それは私たちが、生命の根本的な法則に逆らっているからかもしれません。
ヨガには「アパリグラハ(Aparigraha)」という美しい教えがあります。
日本語では「不貪(ふどん)」や「不所有」と訳されますが、その本質は「握りしめないこと」です。
今日は、現代ヨガが見失いがちなこの本質的な教えについて、少し辛辣な視点も交えながら、深く掘り下げていきたいと思います。
消費されるヨガと、魂の肥満
現代におけるヨガの風景を眺めていると、時折、強烈な違和感を覚えることがあります。
本来、自我(エゴ)を滅却し、執着から離れるための実践であるはずのヨガが、いつの間にか「消費財」へと姿を変えているからです。
最新の機能性ウェアをコレクションし、有名な指導者のワークショップをスタンプラリーのように巡り、難解な解剖学の知識を詰め込む。
これらは一見、熱心な学びのように見えますが、心の姿勢としては、ブランドバッグを買い漁る行為と何ら変わりがありません。
「これを持っていれば、私は特別なヨガインストラクターになれる」「この資格があれば、私は権威を得られる」。
それは精神的な意味での「パリーグラハ(貪り)」であり、魂を肥満させる行為です。
アパリグラハが説くのは、必要以上のものを溜め込まないということです。
それは物質的なモノに限りません。
知識も、経験も、承認も、溜め込めば腐敗し、重荷となります。
ヨガマットの上でさえ、私たちは「もっと、もっと」という渇望の奴隷になっていないでしょうか。
ルッキズムという名の「肉体の檻」
鏡張りのスタジオで、自分のポーズの美しさをチェックする。
SNSに、完璧なアライメント(姿勢)でとったアーサナの写真をアップし、「いいね」の数を気にする。
はっきり申し上げますが、これはヨガではありません。
これは「ナルシシズムの培養」であり、ルッキズム(外見至上主義)への屈服です。
ヨガの古典である『ヨガ・スートラ』において、肉体はあくまで魂の乗り物(舟)であり、メンテナンスの対象ではあっても、執着の対象ではありません。
しかし、現代の商業的ヨガは、「美しく痩せる」「若返る」という欲望を餌に、人々を誘い込みます。
結果、多くの人が「理想の体型」という決して到達できないゴールに向かって走り続け、自分の身体をジャッジし、苦しむことになります。
アパリグラハの視点に立てば、肉体への過度な執着もまた、手放すべき重荷です。
どう見えるか(外見)ではなく、どう在るか(内面)。
他者の視線という評価軸を手放したとき、初めて私たちは自分の身体と親密な対話を始めることができるのです。
解剖学でサマーディには辿り着けない
近年、ヨガ業界では解剖学への傾倒が顕著です。
筋肉の起始停止を暗記し、骨格の構造を詳細に分析することに、膨大な時間が費やされています。
もちろん、怪我を防ぐための安全管理として、最低限の知識は必要でしょう。
しかし、ここで冷徹な事実を直視する必要があります。
どれだけ大臀筋の構造に詳しくなっても、どれだけ関節の可動域を理解しても、それは「サマーディ(三昧)」とは何の関係もありません。
サマーディとは、思考の働きが完全に停止し、対象と一体化する意識の状態を指します。
それは、分析(Analysis)の対極にある統合(Synthesis)の体験です。
「ここは上腕二頭筋を使って……」などと左脳で分析している限り、二元論の世界から抜け出すことはできず、ヨガの最終目的である「止滅」には決して至りません。
知識を詰め込むことは、時として感覚の邪魔をします。
「正しさ」という知識を握りしめていると、今ここで起きている「生きた感覚」を見逃してしまうのです。
知識さえも、ある段階が来たらアパリグラハ(手放す)しなければなりません。
筏(いかだ)は川を渡るための道具であり、向こう岸に着いたら捨てていくものです。いつまでも筏を背負って歩く必要はないのです。
不確実性を受け入れる強さ
では、なぜ私たちはこれほどまでにモノや知識、そして外見的な美しさを握りしめてしまうのでしょうか。
それは、怖いからです。
「私」という輪郭が曖昧になること、未来が不確実であることが、どうしようもなく不安だからです。
だから、確かな手触りのあるモノや、社会的に保証された価値で自分の周りを埋め尽くし、防御壁(バリケード)を築こうとします。
しかし、アパリグラハの実践は、その防御壁を自ら取り崩すことを要求します。
何も持たず、何者でもなく、ただ世界の中に裸で立つこと。
それは一見、心細く、頼りないことのように思えるかもしれません。
ですが、ヨガの先人たちは知っていました。
何も持っていないからこそ、すべてと繋がることができるのだと。
握りしめた拳の中には、空気さえ入ってきません。
しかし、その手を開けば、世界中の空気が手に触れます。
所有を放棄した人(空っぽの人)こそが、宇宙全体を所有することになるのです。
呼吸というアパリグラハ
いきなり全ての執着を捨てることは難しいかもしれません。
まずは、最も身近なアパリグラハの実践から始めてみましょう。
それが「呼吸」です。
吸う息は「受け取ること」、吐く息は「手放すこと」です。
私たちは、息を吸うこと(得ること)には熱心ですが、息を吐き切ること(手放すこと)はおろそかにしがちです。
古い空気を肺の底まで吐き切らなければ、新しい新鮮な空気は入ってきません。
生命維持レベルにおいて、私たちは常にアパリグラハを実践しているのです。
マットの上で、あるいは日々の暮らしの中で、息を長く、静かに吐いてみてください。
それは、溜め込んだ感情、過去の記憶、プライド、そして「こうあらねばならない」というエゴの鎧を、一つずつ地面に降ろしていく儀式です。
終わりに:軽やかさへの招待
ヨガの練習が進むにつれて、あなたは身軽になっていくはずです。
部屋のモノが減り、人間関係がシンプルになり、頭の中の騒音が静まり、自分のプロフィール欄が空白になっていく。
もし逆に、ヨガをすることで荷物が増えていると感じるなら、一度立ち止まって、その荷物を点検してみてください。
それは本当に、魂の旅に必要なものでしょうか?
私たちに必要なのは、何かを足すことではなく、余計なものを引くことです。
アパリグラハ。
それは欠乏への恐怖ではなく、無限の豊かさへの扉を開く鍵です。
さあ、握りしめたその手を、勇気を持って開いてみませんか。
そこには、あなたがずっと探していた自由が、最初からあったことに気づくはずですから。


