私たちの日常は、情報の洪水と絶え間ない刺激に満ちています。朝、目覚めた瞬間からスマートフォンを手に取り、夜、眠りに落ちる直前まで、意識は常に外側の世界へと引きずり回されているかのようです。食事をしながら仕事のメールをチェックし、友人と話しながらSNSの通知を気にする。身体はここに在るのに、心は過去の後悔や未来の不安、あるいは遠いどこかの出来事をさまよっている。この「心ここにあらず」という状態こそが、現代人が抱えるストレスや疲弊感の根源にあるのではないでしょうか。
このような心の散乱状態から私たちを救い出し、現実との豊かな関わりを取り戻すための古代からの叡智が「マインドフルネス」です。近年、西洋の心理学や脳科学の文脈で語られることの多いこの言葉ですが、その源流は古く、仏教の瞑想修行における「サティ(sati)」というパーリ語の概念に遡ります。サティとは、「心に留めること」「気づき」「憶念」などと訳され、それは「今、この瞬間の現実に、評価や判断を加えずに、意図的に注意を向けること」を意味します。
マインドフルネスを、何か特別な精神状態や、達成すべきゴールのように捉える必要はありません。むしろ、それは一つの「能力」であり、日々の稽古を通して鍛えることができる「心の筋肉」のようなものだと考えてみてください。私たちは普段、無意識のうちに腕や足の筋肉を使っていますが、より重いものを持ち上げたり、速く走ったりするためには、意識的なトレーニングが必要です。それと同じように、「気づきの筋肉」も、放っておけばすぐに衰え、思考の自動操縦モードに陥ってしまいます。しかし、毎日少しずつでも意識的に鍛えることで、その力は着実に増していくのです。
では、この「気づきの筋肉」は、どのように鍛えればよいのでしょうか。最も基本的で、誰にでも実践できるのが「呼吸への気づき」です。静かに座り、ただ、息が入ってくる感覚、そして出ていく感覚に注意を向けます。鼻孔を通る空気の温度、胸や腹の膨らみと縮み。思考が湧いてきても、「ああ、また考え事をしていたな」と優しく気づき、そっと注意を呼吸に戻します。思考を無理に消そうとしたり、「集中できない自分はダメだ」と責めたりする必要はありません。思考が湧いたことに「気づき」、そして「戻す」。この繰り返しこそが、ダンベルを持ち上げるような、気づきの筋力トレーニングなのです。
この稽古は、生活のあらゆる場面に応用できます。一杯のお茶を飲むとき、その色、香り、温度、口の中に広がる味わいに、全神経を集中させてみる(食べる瞑想)。道を歩くとき、足の裏が地面に触れる感覚、風が肌を撫でる感覚に意識を向ける(歩く瞑想)。誰かの話を聴くとき、次に何を話そうかと考えずに、ただ相手の言葉とその響きに耳を澄ます。
ヨガの教えの核心である『ヨーガ・スートラ』は、その冒頭で「ヨーガとは心素(チッタ)の作用(ヴリッティ)を止滅(ニローダハ)することである」と宣言します。これは、心の波立ちを完全に静止させるという、非常に高い境地を示していますが、その第一歩は、まず自分の心にどのような波が立っているのかを「知る」こと、つまり「気づく」ことから始まります。マインドフルネスの実践は、この「気づき」の解像度を高めていくプロセスに他なりません。
「引き寄せの法則」という観点から見ても、この気づきの力は決定的に重要です。なぜなら、あなたがどのような現実を引き寄せているかは、あなたの「今、この瞬間」の心の状態、つまり波動(ヴァイブレーション)によって決まるからです。しかし、多くの人は自分の心の状態に無自覚なまま、無意識のうちに欠乏感や不安の波動を発し続け、望まない現実を再生産しています。マインドフルネスによって、自分の内なる天候に気づくことができれば、初めて意識的に心の舵を取り、望む方向へと周波数を合わせる選択が可能になるのです。
まずは一日一分、呼吸に気づくことから始めてみましょう。それは、散乱した心を「今、ここ」という故郷へと連れ戻す、ささやかで、しかし極めて力強い一歩となるでしょう。


