ーすべてを削ぎ落とした先に、残るものー
この28日間の旅を通じて、私たちは、多くのものを「減らす」という実践を続けてきました。部屋を圧迫していたモノ、心を縛り付けていた「すべきこと」のリスト、意識を散漫にさせていた情報の洪水、そして、内なる平和をかき乱す、様々な執着や思い込み。まるで、玉ねぎの皮を一枚、また一枚と剥いていくように、私たちは、人生にまとわりついた、過剰な装飾を、丁寧に取り除いてきました。
では、そのすべての皮を剥き終えたとき、その中心には、一体何が残るのでしょうか。そこにあるのは、空っぽの虚無でしょうか。それとも、何もない、退屈な空白でしょうか。
いいえ、違います。すべてを削ぎ落とした先に現れるのは、私たちが普段、あまりにも当たり前すぎて、その価値に気づくことさえ忘れてしまっている、生命の最も根源的で、最も純粋な営みです。それは、今この瞬間に行われている、一回一回の「呼吸」。地面を踏みしめる、一歩一歩の「歩行」。そして、何かをしたり、何かになったりする以前の、ただ、ここに「在る」ということ、そのもの。
この旅の最終盤、私たちは、これらの最もシンプルで、最も基本的な行為の中に、いかに深く、そして無限の豊かさが秘められているかを探求します。幸福や充実感は、何か特別なものを付け加えることによって得られるのではなく、すでに私たちの中に、生まれながらにして備わっている。その驚くべき真実に、私たちは、自らの身体感覚を通して、静かに気づいていくことになるでしょう。
呼吸:心と身体を結ぶ、生命の糸
私たちは、生まれてから死ぬまで、一日に約二万回以上、呼吸を繰り返しています。しかし、そのうちの何回を、私たちは意識的に感じているでしょうか。ほとんどの場合、呼吸は、自律神経系によってコントロールされる、無意識の自動的なプロセスとして、ただ行われています。
しかし、ヨガの伝統において、呼吸(プラーナヤーマ)は、単なる肺のガス交換以上の、極めて深遠な意味を持ちます。呼吸は、私たちの目に見える肉体(フィジカル・ボディ)と、目には見えない心の働き(マインド)とを結びつける、唯一の架け橋であると考えられています。そして、この呼吸を通じて、私たちは、生命エネルギーそのものである「プラーナ」を、宇宙から取り入れているのです。
この思想は、単なる神秘主義ではありません。私たちの日常的な経験が、その正しさを証明しています。心が興奮したり、怒ったりしているとき、私たちの呼吸は、浅く、速くなります。一方で、心がリラックスし、落ち着いているとき、呼吸は、深く、ゆっくりとしたものになります。この関係は、逆方向にも作用します。つまり、意識的に呼吸を深く、ゆっくりとコントロールすることで、私たちは、興奮した心を鎮め、穏やかな状態へと導くことができるのです。
呼吸は、常に「今、ここ」で行われています。過去の呼吸をすることも、未来の呼吸をすることもできません。したがって、自分の呼吸に意識を向けることは、過去の後悔や未来への不安といった、思考の迷宮から抜け出し、意識を現在の瞬間に引き戻すための、最もシンプルで、最も強力なアンカー(錨)となります。
一回の吸う息の中に、全世界のエネルギーが、自分の内側へと流れ込んでくるのを感じる。一回の吐く息の中に、内なる緊張や不要な思考が、世界へと解放されていくのを感じる。この一回一回の呼吸の中に、生と死のサイクル、宇宙との交歓という、壮大なドラマが凝縮されていることに気づくとき、私たちは、何か特別なことをしなくても、ただ呼吸しているだけで、十分に満たされていることを知るのです。
歩行:大地とつながる、動く瞑想
呼吸と同様に、歩くこともまた、私たちの多くが、ほとんど無意識に行っている日常的な行為です。私たちは、A地点からB地点へ移動するという「目的」のために歩き、歩いている間のプロセスそのものに、注意を払うことは滅多にありません。
しかし、禅の修行には、「経行(きんひん)」と呼ばれる、歩行瞑想の実践があります。これは、坐禅で凝り固まった身体をほぐすためだけに行われるものではありません。歩くという、最も基本的な人間の営みそのものを、マインドフルネス(今、ここに意識を集中させること)を深めるための、動的な瞑想へと昇華させるための、洗練された技法です。
経行では、歩くスピードを極端に落とし、一歩一歩の動きを、微細な感覚レベルで観察します。足が地面から離れる感覚、宙を移動する感覚、かかとが着地し、体重が移動し、つま先へと力が伝わっていく感覚。そのプロセス全体に、全意識を注ぎます。
この実践は、私たちに二つの重要な気づきをもたらします。第一に、それは私たちの意識を、常に未来の目的地へと向かいがちな思考のパターンから解放し、今、この瞬間、大地と接している身体の現実に引き戻してくれます。私たちは、自分の身体が、重力という地球の力に支えられ、大地と常に繋がっているという、根源的な事実を再認識するのです。
第二に、それは、日常生活のあらゆる行為が、瞑想の機会となり得ることを教えてくれます。特別な時間や場所を設けなくても、通勤の途中、昼休みの散歩、スーパーへの買い物、そのすべての「歩行」の瞬間に、私たちは、心を静め、自己と向き合うことができる。この気づきは、私たちの日常全体を、スピリチュアルな実践の場へと変容させる力を持っています。
ただ在る(Being):行為(Doing)からの解放
私たちは、「何をするか(Doing)」によって、自らの価値を定義する社会に生きています。職業、実績、達成したこと。それらが、私たちが何者であるかを決定づける。その結果、私たちは常に何かをしていないと、価値のない人間であるかのような、深い不安に駆られます。
しかし、この28日間の旅で、私たちは、この「行為」の層を、一枚一枚剥がしてきました。そして、その中心に残ったのが、「ただ在る(Being)」という、私たちの存在の最も核となる状態です。
それは、何かを達成しようとすることなく、何かになろうとすることなく、ただ、今、ここに、一つの生命として存在しているという、静かで、しかし揺るぎない事実です。椅子に座っている自分自身の重みを感じる。部屋の空気の流れを、肌で感じる。遠くから聞こえてくる、かすかな音に耳を澄ませる。
この「ただ在る」状態に、最初は退屈や居心地の悪さを感じるかもしれません。それは、私たちの心が、常に行為と思考に慣れきってしまっているからです。しかし、その不快感を乗り越え、ただそこに留まり続けることを自分に許したとき、私たちは、深いレベルでの安らぎと、静かな充足感が、内側から湧き上がってくるのを体験します。
それは、条件付きの幸福ではありません。「もし~ならば、幸せだ」というような、外部の状況に依存したものではないのです。それは、ただ生きている、ただ存在しているということ自体が、本来、完全で、満ち足りた状態であるという、根源的な自己肯定感です。この感覚に根ざすことができたとき、私たちは、もはや外部からの評価や、達成の有無によって、揺らぐことのない、内なる平和の砦を、築くことができるのです。
幸福や豊かさは、遠い未来や、特別な場所にあるのではありません。それは、今、あなたの内側で起こっている、この一回の呼吸の中に。地面を踏みしめる、この一歩の中に。そして、すべての行為をやめ、ただ静かに「在る」ことを許した、この瞬間の、深く、穏やかな静寂の中に。この最もシンプルで、最も身近な真実に気づくこと。それこそが、この旅が目指してきた、究極の目的地なのです。


