私たちは、自分の価値を何か外側の条件と結びつけて考えることに慣れきっています。学歴、職歴、収入、所有物、あるいは他者からの評価。これらの「達成」や「所有」のリストが長ければ長いほど、自分には価値があると感じ、リストが貧弱であれば、自分は無価値だと感じてしまう。この条件付きの自己評価は、私たちの人生に絶え間ない不安と競争、そして尽きることのない渇望感をもたらします。しかし、ヨガ哲学の最も深遠な教えは、この価値観を根底から覆す、衝撃的な真実を私たちに告げます。それは、あなたの価値は、あなたが何を為し、何を所有しているかとは一切関係がない。あなたは、ただ「在る」というだけで、すでに完全であり、無限に価値があり、豊かさそのものの現れなのだ、ということです。
この思想の根幹にあるのが、ヴェーダーンタ哲学が説く「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の真理です。「ブラフマン(梵)」とは、宇宙の根本原理であり、無限の存在、純粋意識そのものを指します。そして「アートマン(我)」とは、私たち個人の内側にある、最も深い核となる真我のことです。梵我一如とは、この宇宙の根源であるブラフマンと、個の根源であるアートマンが、本質において同一である、という教えです。つまり、あなたは大海から分離した一滴の水滴ではなく、大海そのものなのです。宇宙の無限の豊かさ、創造性、知性、そして愛は、すべてあなたの内に、すでに備わっているのです。
この視点に立つ時、自分を何かと比較したり、何かを付け加えることで価値を高めようとしたりする努力が、いかに的外れであるかがわかります。それはまるで、太陽が「もっと明るく輝くために、ロウソクの光を借りてこよう」と考えるようなものです。あなたは、あなたの存在そのものが、すでに完璧な光を放っているのです。
引き寄せの法則の観点から見ても、この自己価値の感覚は、すべての土台となります。もしあなたが心の奥底で「私は無価値だ」「私は豊かさを受け取るに値しない」と感じていれば、どんなにポジティブなアファメーションを唱えても、どんなに鮮明にビジュアライゼーションを行っても、その潜在的な自己否定の波動が、豊かさを遠ざけてしまいます。宇宙は、あなたが自分自身をどう扱っているかを敏感に感じ取り、それを忠実に外側の世界に反映させるからです。あなたが自分自身を「無限に価値ある存在」として扱う時、宇宙もまた、あなたをそのように扱い始めます。
禅の思想に「仏性(ぶっしょう)」という言葉があります。これは、すべての生きとし生けるものは、生まれながらにして仏となる可能性、すなわち悟りを開く神聖な本質を内に秘めている、という考え方です。あなたの内にも、傷つくことも、損なわれることもない、ダイヤモンドのような輝きを持つ仏性が眠っています。私たちの人生の旅は、何か新しいものを獲得する旅ではなく、このすでに内にある輝きを覆い隠している、後天的な思い込みや恐れの雲を一枚一枚取り払っていく旅なのです。
では、この「存在するだけで価値がある」という感覚を、どうすれば取り戻すことができるのでしょうか。
そのための最も直接的な実践が、瞑想です。静かに座り、思考や感情の波が通り過ぎるのをただ眺めていると、やがてその奥に、常に変わることなく存在する、静かで広大な「気づき」そのものに触れる瞬間が訪れます。それが、あなたの本質であるアートマンの輝きです。この「ただ在る」という感覚の中に安らぐ時、私たちは、何の条件も必要としない、絶対的な自己肯定感に満たされます。
また、自分の身体に意識を向けることも有効です。今この瞬間も、あなたの心臓は、あなたが命令することなく、休むことなく鼓動を続けています。あなたの肺は、自動的に呼吸を繰り返し、生命のエネルギーを取り込んでいます。この生命活動の奇跡、精妙で完璧な人体のシステムに意識を向ける時、私たちは自分の存在そのものが、いかに神秘的で、ありがたく、価値あるものであるかを実感することができます。
「私は在る(I AM)」という、最もシンプルでパワフルなマントラを、心の中で静かに唱えてみましょう。この言葉の後に、何も付け加える必要はありません。「私は医者である」「私は金持ちである」といった役割や条件は、すべて移ろいゆくものです。しかし、「私は在る」という根源的な存在の事実は、揺らぐことがありません。
あなたは、宇宙があなたというユニークな形を通して、自身を表現している、かけがえのない芸術作品です。あなたの長所も短所も、成功も失敗も、すべて含めて、その完璧な作品の一部なのです。どうか、これ以上、自分の価値を外側に探し求めるのをやめてください。そして、ただ、今ここに在る自分自身を、深く、無条件に抱きしめてあげてください。その絶対的な自己受容こそが、あなたの人生にあらゆる豊かさを引き寄せる、究極の鍵となるのです。


