前章まで、私たちはヴェーダの神殿に坐す、特に強大な力を持つ三柱の神、インドラ、アグニ、ヴァルナの姿を追ってきました。彼らはそれぞれ、自然の力、祭祀の核心、宇宙の秩序を象徴し、ヴェーダを信奉した古代アーリア人の精神世界の中心を形成していました。しかし、ヴェーダの神々の世界は、この三柱だけで完結するものではありません。それはむしろ、無数の星々がきらめく広大な夜空のようなものであり、一つひとつの星が独自の光と物語を放っています。
この章では、その夜空に輝く「その他の神々」に光を当てていきます。天空を司る古の神々、生命の源である多様な太陽神、そして宇宙の創造に関わる壮大な構想を持つ神々。彼らの物語を丁寧に読み解くことは、ヴェーダの世界観の豊かさと奥行きを理解する上で不可欠です。それはまるで、主要な登場人物だけでなく、脇を固める個性豊かなキャラクターたちを知ることで、物語全体がより立体的で魅力的なものになるのと同じです。
これらの神々は、単なる神話上の登場人物ではありません。彼らは、古代の人々が自然現象の中に感じ取った畏敬の念、社会的な契約の重要性、生命の根源への問い、そして死生観そのものを映し出す鏡なのです。彼らの姿を通して、私たちは古代インドの人々の息づかいや精神のありようを感じ取ることができます。そして、驚くべきことに、数千年の時を超えた彼らの物語は、情報過多でせわしない現代を生きる私たちの心にも、静かに、しかし深く響き、新たな視点や生きる智慧を与えてくれるのです。さあ、ヴェーダ神話という万華鏡を覗き込み、そこに広がる無限の色彩とパターンの世界へと旅を始めましょう。
もくじ.
天空に輝く古層の神々:秩序と盟友の守護者
ヴェーダの神々の中でも、特に古い起源を持つと考えられるのが天空神です。彼らは、後の時代にインドラのような具体的な力を持つ神に主役の座を譲っていきますが、その存在はヴェーダの世界観の基層に静かに横たわっています。
ディヤウス・ピター (Dyaus Pitā) – 見守る天空の父
「ディヤウス・ピター」という名は、「天空の父」を意味します。言語学的に見ると、ギリシャ神話の最高神ゼウス・パテール、ローマ神話のユピテル(Iu-piter)と語源を共有しており、インド・ヨーロッパ語族に共通する、非常に古い信仰の形であったことがわかります。彼は、母なる大地プリティヴィー・マータル(Pṛthivī Mātṛ)と対をなす存在であり、この天父と地母の間に万物が生じたと考えられていました。
しかし、『リグ・ヴェーダ』が編纂された時代には、ディヤウスの存在感はすでに薄れつつありました。彼は具体的な恩恵をもたらしたり、祭祀で積極的に呼びかけられたりする神ではありません。むしろ、万物を見守る、広大で静かな背景としての天空そのものといった方が近いでしょう。彼の役割が後退していった背景には、人々の信仰が、より人格的で、具体的な力(雷、火、勝利など)を持ち、人々の願いに応えてくれるインドラのような神々へと移行していったことが考えられます。
それでもなお、ディヤウスの存在は重要です。彼は、全ての神々や人間が存在する「場」そのものを象徴しています。私たちがヨガのアーサナを行うとき、大地(プリティヴィー)にしっかりと根を下ろし、天空(ディヤウス)に向かって伸びていく感覚を意識します。この天地との繋がりを感じる感覚は、ヴェーダの時代から続く、人間と宇宙との根源的な関係性を身体で再認識する行為と言えるかもしれません。ディヤウスは、もはや祈りの中心ではありませんが、私たちを包み込む広大な宇宙の静寂と秩序の原型として、ヴェーダの世界に静かに存在し続けているのです。
ミトラ (Mitra) – 契約と盟友の神
ミトラは「契約」「盟友」を意味する名の神であり、社会的な調和と秩序を司る重要な神格です。彼はしばしば、前章で詳述した宇宙の理法を司るヴァルナと一対で「ミトラ・ヴァルナ」として讃えられます。この二神は、コインの裏表のように、宇宙の物理的秩序(リタ)と、人間社会の倫理的秩序を共に守護するのです。
ヴァルナが夜の空、そして宇宙の深遠な法則を象徴し、法を犯す者には厳格な罰を与える畏怖すべき側面を持つのに対し、ミトラは昼の光、特に太陽と結びつけられ、人々の間の約束や友情を温かく見守る、より親しみやすい側面を持ちます。彼は、人々が争うことなく、互いに誠実であることを監視し、契約が守られるように働きかけます。彼の存在は、古代アーリア人の社会が、単なる力の支配ではなく、信頼と約束事に基づいた共同体であったことを示唆しています。
現代社会において、私たちは数え切れないほどの契約や約束の中で生きています。しかし、その根底にあるべき「信頼」や「誠実さ」といったミトラ的な価値観は、時に忘れ去られがちです。ミトラ神の物語は、人間関係や社会の基盤がいかに繊細な信頼の上に成り立っているかを、私たちに思い出させてくれます。心を開いて他者と関わること、交わした言葉に責任を持つこと。それは、調和のとれた共同体を築くための、時代を超えた普遍的な智慧なのです。
生命の源泉:多様な姿を見せる太陽神たち
ヴェーダにおいて、太陽は単一の神格ではありません。その光、熱、動き、そして生命を与える力など、多様な側面がそれぞれ独立した神として崇拝されました。太陽の光なくして生命は存続できず、闇を払うその力は、無知や悪を打ち破る象徴とされたのです。
スーリヤ (Sūrya) – 天空を駆ける輝ける眼
スーリヤは、太陽そのものを最も直接的に神格化した存在です。「太陽」を意味する彼の名は、天空を七頭の馬が曳く戦車に乗って駆け巡り、世界に光と熱をもたらす姿で描かれます。彼は「神々の眼」とも呼ばれ、その光は地上の一切の出来事を見通していると信じられていました。彼の光は、単に物理的な闇を払うだけでなく、病や悪霊といった目に見えない邪悪なものをも浄化する力を持つと考えられていました。
スーリヤへの賛歌は、生命の躍動感に満ちています。夜という死にも似た眠りから世界を目覚めさせ、人々を日々の活動へと促す。その規則正しい運行は、宇宙の秩序(リタ)の最もわかりやすい現れでした。私たちが朝の光を浴びて、身体が自然と活動モードに切り替わるように、古代の人々はスーリヤの光の中に、生命を鼓舞する神聖なエネルギーを感じ取っていたのです。太陽礼拝(スーリヤ・ナマスカーラ)というヨガの実践は、この古代の太陽崇拝の記憶を現代に伝える、力強い身体儀礼と言えるでしょう。
サヴィトリ (Savitṛ) – 知性を鼓舞する黄金の光
サヴィトリは、太陽の持つ「刺激し、活動させる力」を神格化した存在です。スーリヤが太陽の物理的な側面を代表するのに対し、サヴィトリはその内的な、精神的な働きかけを象徴します。彼の名は「鼓舞するもの」「刺激するもの」を意味し、全ての生き物を眠りから覚まし、それぞれの活動へと駆り立てる力を持ちます。
このサヴィトリ神に捧げられたのが、『リグ・ヴェーダ』の中で最も神聖で強力なマントラとされる「ガーヤトリー・マントラ」です。
「オーム。我らは、かの崇拝すべきサヴィトリ神の、栄えある輝きを瞑想いたします。願わくは、彼が我らの知性を鼓舞したまわんことを。」
このマントラが祈願しているのは、物質的な富や健康ではなく、「知性(dhiyah)の鼓舞」です。これは、単に頭が良くなることを意味するのではありません。私たちの内なる目を開かせ、真理を洞察し、宇宙の根源的な実在へと向かう智慧の光を求める祈りなのです。サヴィトリは、私たちを日常の惰性から目覚めさせ、より高い意識の状態へと導く、内なる太陽の光の象徴です。瞑想において心が静まり、深い気づきやインスピレーションが訪れる瞬間、それはまさにサヴィトリの黄金の光が私たちの内側に差し込んだ瞬間と言えるのかもしれません。
ヴィシュヌ (Viṣṇu) – 宇宙を闊歩する維持の神
後のヒンドゥー教において、創造神ブラフマー、破壊神シヴァと並ぶ三神一体(トリムルティ)の最高神となるヴィシュヌですが、『リグ・ヴェーダ』の時代には、まだそれほど中心的な神ではありませんでした。しかし、その後の発展を予感させる、非常に重要で特徴的な神話が語られています。
ヴェーダにおけるヴィシュヌは、太陽の運行を神格化した神であり、インドラの盟友として、彼の英雄的な戦いを助ける存在として登場します。彼の最も有名な神話は、「三歩の闊歩(トリヴィクラマ)」です。ヴィシュヌは、たった三歩で、地界、空界、天界の全てを歩みきったとされます。この三歩によって、彼は神々と人間のための広大な活動空間を確保し、宇宙に秩序と安定をもたらしたのです。
この「三歩」は、日の出、南中、日没という太陽の運行を象徴していると考えられています。ヴィシュヌの本質は、宇宙を維持し、そこに住む生命が活動できる「場」を確保することにあります。彼は破壊的な力を持たず、常に友好的で慈悲深い神として描かれます。この宇宙の維持者、秩序の守護者という性格が、後の時代に彼が最高神として崇拝されるようになる大きな要因となりました。私たちの存在が、安定した宇宙の法則と秩序によって支えられているように、ヴィシュヌの三歩は、私たちが安心して生きていける世界の基盤そのものを象徴しているのです。
創造と生命の根源をめぐる神々
宇宙はどのように始まったのか? 生命はどこから来たのか? これらの根源的な問いに対して、ヴェーダの詩人たちは、多様な創造神の姿を思い描きました。
プラジャーパティ (Prajāpati) – 自己犠牲による生類の主
「生類の主」を意味するプラジャーパティは、『リグ・ヴェーダ』の最も後期の層や、その後のブラーフマナ文献において重要性を増してくる創造神です。初期の神々が具体的な自然現象と結びついていたのに対し、プラジャーパティはより抽象的で哲学的な性格を持つ、万物の創造主として構想されました。
彼の創造神話は、しばしば「自己犠牲」というテーマと結びつきます。プラジャーパティは、自らの身体を分割し、あるいは自らを犠牲として火に投じることによって、世界とそこに住む生き物たちを生み出したとされます。これは、第一部で触れた「プルシャの犠牲」の神話とも響き合います。創造とは、無からの生成ではなく、一つの根源的な実在が、自らを多様な形へと展開していくプロセスである、という思想がここに見て取れます。この「一者が多者になる」という思想は、後のウパニシャッド哲学における「ブラフマン(梵)」の概念へと繋がっていく重要な萌芽です。
ヴィシュヴァカルマン (Viśvakarman) – 宇宙を造りし万物の工匠
プラジャーパティが哲学的な創造主であるとすれば、ヴィシュヴァカルマンはより具体的な「工匠」としての創造神です。「万物(ヴィシュヴァ)を造る者(カルマン)」という名の通り、彼は優れた技術を持つ職人や建築家のように、天と地を設計し、鍛え、組み立てたとされます。
彼の賛歌には、「森はどのようであったか、木はどのようであったか、それらから天と地は切り出されたのか」といった具体的な問いかけが見られます。これは、宇宙という壮大な建造物に対する驚きと、その設計者への畏敬の念を示しています。ヴィシュヴァカルマンは、宇宙の創造を、秩序立った知的な計画に基づく行為として捉える視点を私たちに与えてくれます。自然界に見られる精緻なデザインや機能美、例えば雪の結晶の形や、蜂の巣の構造に、私たちは時に神的な知性を感じることがあります。ヴィシュヴァカルマンは、そうした宇宙の設計図を描いた大いなる知性の象徴なのです。
その他の個性豊かな神々:ヴェーダ神殿の多様な住人たち
ヴェーダの神殿には、これまで見てきた神々の他にも、人々の生活の様々な側面に関わる、個性豊かな神々が数多く存在します。
ルドラ (Rudra) – 荒ぶる神、そして癒しの主
ルドラは「咆哮する者」を意味する名を持つ、暴風雨の神です。彼は山に住み、弓矢を携え、人や家畜に病や災いをもたらす、非常に恐ろしい側面を持つ神として描かれます。自然の持つ予測不可能で破壊的な力への、古代の人々の純粋な畏怖が、ルドラの姿に凝縮されています。
しかし、ルドラはただ恐ろしいだけの神ではありません。彼は同時に、優れた医者でもあり、病を癒す薬草を司り、人々を災いから救い出す慈悲深い側面も持つのです。人々はルドラの怒りを鎮めるために祈りを捧げると同時に、彼の癒しの力を求めて助けを請いました。この破壊と慈悲という両義的な性格は、後のヒンドゥー教において偉大な神となる「シヴァ」(「吉祥なる者」の意)へと発展していきます。ルドラの存在は、自然の力が持つ厳しさと恵みという二面性を、古代の人々が深く理解していたことを物語っています。
ヤマ (Yama) – 死者の国の公正な王
ヤマは、人類で最初に死を経験し、死者の国の王となった神です。彼は、二匹の斑の犬を従え、死者の魂が辿る道を支配しています。しかし、彼のイメージは、地獄の閻魔大王のような、罪人を裁き罰する恐怖の存在とは少し異なります。ヴェーダにおけるヤマは、死者を安らかな祖霊の世界へと導き、そこでの秩序を維持する、公正な統治者としての側面が強いのです。
ヴェーダの死生観では、死は終わりではなく、祖先たちが住む世界への移行でした。ヤマは、その移行を管理する重要な役割を担っていました。人々は、ヤマが故人の魂を丁重に迎え入れ、祖霊の世界での安楽を保証してくれるように祈りました。ヤマの神話は、死という避けられない運命に対して、古代の人々がどのように向き合い、そこに意味と秩序を見出そうとしていたかを教えてくれます。
サラスヴァティー (Sarasvatī) – 聖なる河、そして言葉の女神
サラスヴァティーは、元々は実在したとされる神聖な川の女神でした。その豊かで清らかな流れは、生命を育み、土地を浄化する力を持つと信じられていました。やがて、その川のせせらぎの音は、祭官たちが唱えるマントラの神聖な響きと重ねられるようになります。そして、サラスヴァティーは、川の女神から、言葉(ヴァーチュ)と思考を司る、知恵と弁舌の女神へとその神格を変容させていきました。
清らかな水の流れがインスピレーションの源泉となるように、サラスヴァティーは詩人や祭官に霊感を与え、彼らの言葉に力を与えるとされました。この「流れ」としての性質は、後のヒンドゥー教において、学問、音楽、芸術全般を司る優雅な女神へと発展する基盤となりました。私たちの創造的な思考や表現が、よどみなくスムーズに流れるとき、それはサラスヴァティー女神の恩恵を受けているのかもしれません。
結論:神々の万華鏡が映し出すもの
インドラ、アグニ、ヴァルナという主神の影に隠れがちな「その他の神々」。しかし彼らの物語を辿る旅は、ヴェーダの世界観がいかに豊かで、多層的であったかを私たちに教えてくれます。天空の父ディヤウス、契約の神ミトラ、多様な太陽神たち、そして創造や死を司る神々。彼らは、古代インドの人々が、自然のあらゆる働き、社会の営み、そして生と死という根源的なテーマの中に、神聖な意味と秩序を見出していたことの力強い証です。
この神々の万華鏡を覗き込むことは、現代を生きる私たちにとっても、深い意味を持ちます。それは、世界を単一の価値観や画一的な視点で見るのではなく、その複雑さや多様性をそのまま受け入れる感性を取り戻すことに繋がります。太陽の光ひとつとっても、スーリヤの物理的な力、サヴィトリの精神を鼓舞する力、ヴィシュヌの秩序を維持する力と、様々な側面から捉えることができるのです。
ヴェーダの神々の役割が、具体的な自然現象から、より抽象的な宇宙の法則、そしてプラジャーパティのような哲学的な創造主へと変遷していく様は、人類の意識が外面的な世界から、内面的な真理の探求(後のウパニシャッド哲学)へと向かっていく壮大な旅路そのものを映し出しています。
ヨガや瞑想の実践は、この古代の叡智と私たちを繋ぐ、現代の儀式と言えるかもしれません。静かに座り、呼吸に意識を向けるとき、私たちは自分を包む空間(ディヤウス)と大地(プリティヴィー)を感じます。太陽礼拝で身体を動かすとき、私たちはスーリヤの生命エネルギーを内に取り込みます。マントラを唱えるとき、サラスヴァティーの清らかな流れに心をゆだねます。これらの実践を通して、私たちは神話の世界を、単なる物語としてではなく、身体感覚を伴った生きた叡智として体験することができるのです。ヴェーダの神々は、古代の聖典の中に閉じ込められているのではありません。彼らは今も、私たちの周りの自然の中に、そして私たち自身の内なる宇宙に、息づいているのです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


